港町のどんぶり
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1 私の住む町内では今から20年前、魚屋さんが12軒ほど軒を連ねるようにして賑わいを集めていた。
 現在は6軒を残し店を閉じている。数年先には半滅して行くに違いない。これに代わってスーパーの店先にはこぎれいに並べられた魚介が消費者の目を留めている。
 かって、市場で競って魚を求め店頭で売り切るという商行為は商いの原型であると思っていた。その「魚屋さん」という商いが消滅して行く。その果てには地域社会の崩壊という未知の日常が横たわっている。

 @ここではその行く末を反転し、賑わいの原点を探る A次に港町銚子の水揚げの現場に向かい Bそして、飯沼観音の門前町として栄えた商店街の時空間を戦前・戦後間もない時期まで遡り<港町の丼>という商品開発のモチーフを考えてみたい。
 当面、「銚子観音前の穴場食堂 港町のどんぶり屋」を仮想し、地域再生の入り口を模索する。

2 模索を始めて1年、「港町のどんぶり」は「銚子石」を手掛かりにあっちへ行ったり彷徨ってきた。本年11月、観音界隈の再生を目指す銚子まちづくり会社の設立に伴い仮称「観音食堂」として出店の企画に入った。開業は本年6月の予定である。


3 11月末、観音界隈再生の行方は銚子まちづくり会社を中心に「わくわく門前町プロジェクト」として展開を開始した。このプロジェクトは2年という限定で、次代の専門店と銚子固有の賑わい創出を担う事業を目指す。

4 次世代への再生は偏に人材の育成に尽きる。よくよく考え末に本年1月、門前へ塾を備えることに到った.この門前塾は5名の塾生を求め、プロジェクトメンバーとどんぶり店を始めとした店舗の構築を通じ起業のノウハウ修得と地域再生のリーダーを創出するものである。

5 同じて次代を担う若き「ブランク」の諸君が房州末端の無謀な営みに次世代の交通手段を「新風組織論」として提案、最先端のネット配信技術を介しプロジェクトとの協同作業に入っている。

6 今、時代の行く末を見つめ過去を謙虚に引き寄せて見る。江戸中期、どんぶり、てんぷら、すしなど江戸庶民の味が生まれた。前浜の魚と濃い口の銚子醤油が新たな食文化を創り出した。

7 先ずは観音前に一軒、銚子石で敷き詰められた「どんぶり」店を開業、以降、銚子港水揚の魚と濃い口を活かし
新たな銚子の味と専門店を創りだす。これを銚子の新たな観光拠点への入り口にしたい。

8 これまでが平成23年3月11日までの経緯である。門前にどんぶり店を開業する直前に未曾有の大震災に出会った。たまたま旧飯岡町に居住していたので被災と風評被害を喰らい事態を読み解くのに若干の時間を要した。この間、現場で津波の写真展・聞き取り調査などを手掛けながら「復興どんぶり」を始め、震災後の地域で元気を分かち会う仕組みを提案した。

9 3・11東日本大震災は社会の枠組みを代える災害であると共に時代を駕する事変でもある。何処にでもある商店街の衰退と付き合いながら「港町のどんぶり」という店舗の展開を介し、地域が共同性と共有という時代のシェアを獲得する過程を歩んで行きたい。

   町の魚屋さんーその1
 人づてに銚子の繁華街から少し離れた魚屋さんを訪ねた。三代目でお子さんはすでに別な職業へ就いていると言う。
 現在、市内で魚屋さんは60数店で以前から比べて半滅、毎年、5から7店が廃業、将来、魚屋さんとして自立展開できるのは10店ぐらいではないかと語っていた。
 戦後の魚さんの日常を聞いてみた。20年代前半まで父親は自転車で、次いでオートバイ、30年代に入り小型の自動車で市場に仕入れにいった。店先での商売以外に冠婚葬祭の仕出しが多く、休みなど無かった。
 今になって考えて見ると40年代に入りスーパーが出来、冠婚葬祭は自宅からホテル、料理屋などに移行されていった。当時、別な業態に移ったり兼業の商売を始めた店がその後、大きく伸びた。現状維持の魚屋さんには跡継ぎは別な世界に生きる道を目指したのはごく自然な成り行きであった。
 確かに高度成長期を境に町内を相手に商いをしてきた商店は地域の共同性の解体に伴い歯が欠けるように店を閉じてきた。
 ここまでがごく有り触れた地域と魚屋さんの戦後の経緯といえる。
  どんぶり考ー1
 
極上さば料理を展開する中で「さばの漬け丼」が一番美味しいという評価を得た。ここから飯を食べる器の原型として<どんぶり>の見直しが始まった。右の器は手に持ち<かっ込む>の所作に馴染む器だ。その形態は用と美1:1,6、どんぶりの黄金比である。
  町の魚屋さんーその2
次に訪ねたのはマグロなどを扱う第一市場の前で商いをしている店舗兼問屋の店であった。威勢にいい掛け声が店内を駆け巡っている。こうした手足の動きと言葉のやり取りが律動している時、労働とか商いの原型を見るようだ。
 経営者の声を聞いてみた。過っては船主であったが減船で陸に上がり、銚子港で水揚げする魚介類の販売・料理店の営業を始めたという。銚子港で水揚げされた魚を店頭に並べているが町内を相手にする<商い>とは方法というのか次元を異にしているように思えた。
 どんぶり考ー2 歴史
 辞書によると井戸の中にあるつるべの象形文字で、物が井戸に落ちるどぼんという擬音語だという。ここから諸説入り乱れている。江戸時代に職人の立ち振る舞いや飯屋の客に対する態度から<どんぶり>が生まれ「丼」の字を当てたらしい。
 飯の上に具をのせて食べる習慣は古くからあったが江戸時代になって「うな丼」とか「天丼」など庶民の食べ物になったという。
    
 どんぶり考ー3 器 
 詳しく調べていないので当時の器の様式は分からない。深めの陶製の器を鉢とも呼んでいたから現在の丼と違いは無いといえる。茶碗より大きい器であったらしい。
 ここから推定できるのは具は時代を追って変化しているのに器の進化は少ないことだ。
当たり前だがこれは手に持ち食べる人間の所作は数百年の時間で変わらないからだ。
 
 どんぶり考ー4 器と具とタレの関係
 器についてはほぼ手中に収めたといえる。ではをどれにするか、ご飯との相性で無限に可能性がありうる。この相性を仲介するのがタレである。
 ここで<どんぶり>屋の世界を想定してみたい。器の中で彩り・香り・味・食感を表現することになる。
 そして、生業としてのこだわりは飯→具→タレの順になる。
 
 賑わい考ー1 
 
振り返ってみると私にとり「賑わい」とは日常とは別の世界であった。気分が高まり金品のやり取りが日常とは別の感覚に麻痺していたような気がした。この感覚を整理してみると四つ位に分けられる。
@昭和20年代、自給自足の農村共同体での少年時代→ハレとケ
A高度経済成長→都市の大規模イベント
Bバブル期以降→道の駅や各地のグルメ
C現在→ 賑わいの日常化    
 
   どんぶり考ー5  ネギとのり
  かってサラリーマンのころ、昼食にはのり弁、アパートでは鰹節にネギを刻み醤油をからめてご飯に乗せ食べたものだ。短時間にお腹を満たすには打ってつけであった。
 よく考えてみた。判ったことはのりやネギの風味が醤油のきつさを和らげていたこと、そのことによって、醤油の旨みがご飯を最大限に引き立てていたことであった。
 ここにいたり<どんぶり>を構成するひとつのイメージがほぼ見えてきた。
  どんぶり考ー6 ー醤油
 かって銚子の隣町に住むまでは醤油に全く関心が無かった。以来、刺身、煮物、焼き物など日常の総菜に濃い目の醤油が付き物となった。魚といえばイワシに始まり、カツオ、マグロなどの青味魚が時期を追い台所を支配していた。
 よくよく考えてみた。当たり前だがあの青味魚の旨さである脂に応対できるには薄口ではなく濃い口であった。
 言い替えれば個々の魚の肉質・脂=醤油の濃い口の度合いがタレの決め手であることが確認できた。
 
写真集銚子の昭和史P59
ヤマサ醤油工場の樽詰め
作業風景
 
   どんぶり考ー7 素材@ マグロ-キハダ
 手ごろなマグロが入ったと連絡があり市場に向かった。小型のキハダの18キロもの、鮮度はまあまあというところ、キロ590、これからが魚屋の店頭に並ぶ旬の魚。手ごろな値段、脂身は少ない、身は柔らかい、だが生マグロとしての旨みはのど越しに伝わる。夏場の素材のひとつとして試みることにした。
 
  どんぶり考ー8 雑談 どんぶりのイメージづくり
 これまで試みてきたのはさばの漬け丼に始まりいわし、まぐろ、すずきなどである。あつあつのご飯にタレを絡めた具と野菜類が混ざり合い口の中で相乗的な旨みとなることをイメージしてきた。
 分解して見る。@あついご飯に冷たい具であること、その温度差が直感的な旨みになる。 A具とご飯が柔らかさ・味で馴染んでいること、例えば鮮度が良い死後硬直中の魚は向かない Bご飯と具の間を取り持つ野菜類などを的確に選択すること、柔らかさに歯ごたえを与えるネギや海苔やショウガなどの風味が口の中で旨みにリズム感(相乗的)を与える。 
    賑わい考ー2 港町のどんぶりとは
 ここでどんぶり考の中間総括をして見たい。これまで器・ご飯・具・タレ・野菜など構成の面から組み立てをイメージして来た。
 しかし、港町のどんぶりへのこだわりはどうも別なところにある。いわゆる会席料理系とは別に <銚子港水揚げの魚>を最も美味しく食べる方法とは何か!なかなか出口が見えなかった。
 
  賑わい考ー3  <銚子港水揚げの魚>とは
 ここ数年、週に数回、魚の仕入れに銚子漁港へ足を運んでいる。水揚げは底引き、巻き網による漁で、イワシ、サンマ、サバ、アジ、マグロなど青味魚類である。
 ずうと考えているが手間暇を厭わずここに労力を集め観光客のニユーズに沿った商品を開発する以外に道は無いと思っている。
 また、歴史を否定するつもりは無いが江戸の台所として王道を歩んできた歴史を再編するか細い通路と考える。
 そして、<食を通じて観光客の誘致>は道のりが長いが地域を再編する人間的な営みと考えたい。
 

昭和26年銚子漁港の賑わい
(写真集銚子の昭和史より
   賑わい考ー4 <食を通じての観光客誘致>とは
 地域の衰退・少子高齢化などこれに歯止めをかけ<事業を起こす手立て>は全国津々浦々、共通の課題になっている。食を通じての観光客誘致ははその有力な手段である。その方法はB級グルメに始まり道に駅まで様々である。処方箋に暇はない。
 うめぇもん研究会の歩みは @1社1品の商品つくりを独自な組織運動により A地域を代表するロングランの商品に B観光客を集客する方策として専門店化を提案してきた。
 
  賑わい考ー5  <銚子観音前とは >−1 復興
 銚子中心市街地の衰退は著しい。全国どこの市街地も同じだといえばその通りになる。しかし、どうも判らないことがある。700年に及び門前町として栄えてきた町が僅か数十年で軒を降ろす光景とは、、、。
 銚子観音の近くに住む知人によれば太平洋戦争で空襲に会い、その復興で門前通りは道路によって寸断されたこと、旧来の街並みは再興されなかったこと、が指摘された。
 いわばこの時点で街の歴史・文化は断絶し将来に渡って再生を自らが葬り去ったといえる。この付けは想像以上に深いと思う。 
     戦前の地図があった
 @ 旧来の町並みを知るには古い写真や地図を手掛かりに辿る手がある。知人に話したところ、早速、手を尽くし上の絵図や実測図を探し求めてきた。
 発行者は銚子の座古平三郎で大正13年4月再版と記録されているので明治から大正にかけての絵図(俯瞰図)と想定される。当時の街の姿が手に取るように再現できる代物だ。真ん中の入り江のような船着場の上に観音様がある。
A 下の図は昭和2年発行(著作兼発行 今井金三郎)の実測図だ。地形図といってよい。正確であるかどうかより当時の姿が想像できる資料といえる。
B
写真集 銚子」の付録に掲載されている明治時代の銚子港全図   
A 
B
  賑わい考ー6 <銚子観音前とは>−2  内発の論理
 銚子中心市街地の再生という言葉は私が隣町に住んでから(今から24年前)ずーと聞いてきたような気がする。
 私が知っている範囲でも国や県の事業で再生の試みは数えきれない。しかし、一旦閉じたシャターを再開することは無かった。現状を改変する読み替えに心を打つものが無かったといえる。何処かの例をモデルとする外部注入型の時代は終わった。同時に過去と未来に責任を問わない補助金による仕組みつくりは確実に転換を迎えた。
 よそ者からの視点を述べて置きたい。
@再生する根拠とそこに住む人たちが自力で街を作る営為を誇りとしない限り再生はあり得ないということ。A銚子観音を前提とするまちづくりならば先ず観音様が考えを提案し檀家を説き伏せ身銭を賭けるかに掛かっている。Bこれが重要かな、構想力と事業力を兼ね備えたリーダーが内発型の論理を組み立てること。 
 この写真は昭和初期の飯沼観音仁王門前、門前町の日常である。ハレに日には近隣から訪れる人での賑わいが伺える。 明治初年の飯沼観音界隈
地籍図当時の正確な地図といえる。
  賑わい考ー7 <銚子観音前とは>−3 内発型の論理の構築に向けて
 調べて行く内に判って来たことが二つあった。
基本は銚子の再生は過去をずうと遡り未来を語るエネルギーで時代を転換することであった。
 再生する根拠と営為をエネルギーに転換するには二つしかないと考えたい。ひとつは再生できなかった理由を徹底的に掘り下げること もうひとつは車の道を遮断し過去と未来を結ぶ人の道を作る事業を実現すること 。
 これを実現する近道はこの事業に賛同する設計者・デザイナーが不可欠である。
  先ずは自力で@旧来のイメージを改変する街並を仮想化すること Aやりたいことに汗水を流すひとを集めること  B最低限の商売(商いの原点)が成立する店舗の集合体を作ること などを構想力で指し示すような気がする。  
  賑わい考ー8 <銚子観音前とは>−4 界隈とは
 これまで幾つかの資料を取り寄せ「現状」の読み替えを試みてきた。資料の中では<飯沼観音界隈>という言葉で観音様の周辺を表現していた。今の言葉でいうと地域とか地区になるようだが過っての<界隈>とは周辺一帯から人々が集まる独自な街であったと思う。
 この図を見ると過っての<界隈>は観音様を中心に描かれている。「賑わい」の姿は読み取れないが<界隈>とは「賑わい」と同律していたように伺える。
 
赤松宗旦「利根川図誌」
観音界隈の図
写真集銚子 図書刊行会より
「戦時中の飯沼観音周辺」
この写真では江戸時代から飯沼観音境内を中心に門前町として発達したという。右上下に映画館、左に演芸館と記している。
門前町は大衆娯楽と共存し地域の中心として<賑わい>を集中していたことが判る。この貴重な写真は時代の刻印を残している。
戦後、映画・演芸など大衆娯楽の衰退と共に門前町は<賑わい>を失っていった。この延長線上に商店街の人の道は不可視の領域に入った。

賑わい考ー9 <銚子観音前とは>−5 界隈の変質
 明治以前の図を重ねてみると観音の周囲に門前と醤油と河岸という要素が「賑わい」を構成している。信仰と娯楽は当時でいえばハレという癒しであった。全国の門前の街がこれを担ってきたといえる。他の門前町と違いを探れば「醤油」と「河岸」であることが判る。
 ところが大正時代の俯瞰図ではヒゲタ醤油は移動し、河川の改修によって以前の河岸は姿と機能を変えていることが判別できる。想像でしかないが「銚子観音界隈」はこの頃から独自な「賑わい」を変質していったような気がする。

観音様正面

観音様から中央商店街
 
観音通りを横断する道
 賑わい考ー10 <銚子観音前とは>−6 商いの原型・市の原型
 漁業の生産物も仲買人を通じ江戸から首都圏へ、近隣の農村も自給自足から市場出荷へと商品経済の進展が背景にある。そして完璧に商品経済が成立している現在を迎えている。だがこれから過去を俯瞰する立場では当時の「賑わい」の内実はどうも見えない。
 また、現在のところ手元に資料がないので展開を試み出来ないが発見したいものは二つある。ひとつは魚の水揚げ、北日本・江戸、東京を結ぶ交易、門前町が織り成してきた商いの在り様ともうひとつは物の売り買いの人々の在り様である。通常の文献では伺えない共同体の内側の論理であるが銚子観音前の新たな人の道を創り出す固有な論理の創生に不可欠だからだ。
はっきりいうと従来の「賑わい」でない「賑わい」を創出するという読み替えの視点を発見したい。
   賑わい考ー11 <銚子観音前とは>−7  てんでんしのぎ−1
 銚子観音界隈の商いとか生活の知恵についてその実態が判らないでいた。
 知人に尋ねて見た。あっけらかんにそれは「てんでんしのぎ」だから何も無いんですよ。という答えであった。知人によると、この言葉は過って利根川の河口では船の災難が多く、助けようとすれば自分の巻き込まれるのでその場を凌ぐしかなかったことだという。ここから事態に対し「めいまい勝手に生きて行く」という銚子に住む人々の知恵を転じたと言うらしい。
 これまで、現状を憂いたり反省するとき銚子はてんでんしのぎだからなという言葉を聞かされた。よく考えて見るとこれは我慢するということ・自分さえよければいいという生活意識の裏表なのだ。
 共同性の論理から見ると目先の事態を優先する知恵と受け取れる。銚子人特有の気質というと大袈裟であるが新たな共同性を模索するとき、生活意識の媒介は必須の要件である。この点で「てんでんしのぎ」の顕在化は避けて通れない。
   賑わい考ー12 <銚子観音前とは>−8 てんでんしのぎー2
 知人との話が弾んだ。先の「市立銚子病院」問題も結果論からは「てんでんしのぎ」ではないか、そうかも知れない、確かに重要港湾問題、火力発電問題、また、近今のイオンなど銚子の地勢的資源を省みなかった短絡的な判断は数え切れないという。
 私の住む旭市では道の駅構想が市、議会、関係者等で協議が始められた。疑問はあるが仕組みと事業の取り組み次第、つまり知恵と汗の結晶如何によって地域の農業・漁業・中小事業者の将来像と雇用を解決する秘策になる可能性がある。 
   賑わい考ー13<銚子観音前とは>−9てんでんしのぎー3
 知人が私の勝手な判断に見かねて分厚い銚子市史を携えてきた。
目を通して見た。江戸後期から明治まで飯岡町は銚子に次で海産物の中継基地として賑わっていたらしい。以来、銚子の動向と一緒の動向を歩んでいる。江戸・東京に出荷する商売のみで産物を加工し産品にする商い、言い換えれば地域の中で金銭が回る仕組みが皆無であったことだ。物流は手っ取り易いが価値を波及させる商いではない。
 今から20数年前、素手で商いの真似事は始めたとき業の手本となるものが無かった。「てんでんしのぎ」は銚子のみならず私の住む地域に住みついでいた。
 賑わい考ー14<銚子観音前とは>−10てんでんしのぎー4(参考資料)
 家内も見かねて東部図書館に調べにいった。一冊だけ見つかった。「てんでんしのぎ」に関する資料は貸し出し出来ないと言われコピーしてきた。元明神小学校の堀校先生が書いた「てんでんしのぎ脱出」の一部分である。
 昭和20年代後半から30年代にかけ貧乏に明け暮れる明神地区、荒れ狂う校内を改善したいという教育者の実践記録である。当時はしては正面から臨んでいたのか地域から不評をかったらしい。だが読み返してみると「てんでんしのぎ」という生活意識に取り組んだ貴重な例と受け取れる。
   未完の銚子横断運河考−1 始まり
 銚子市史をページに沿って目を通して見た。1箇所だけ私の銚子のイメージを変えるページに出会った。第十節 港湾施設 P825 僅か5行でことの経緯が述べられている。
 当時、江戸の発展に伴い奥羽からの中継港になったが利根川河口は難破転覆の惨事が絶えず、これを防ぐ方策としてと利根川と太平洋を結ぶ運河の開設構想が持ち上がったという。新生から名洗まで銚子半島を横断する掘割工事だ。
 現在、この<運河>は滑川となっている。下の写真は知人が撮ってきたものである。場所は新興橋(旧湊橋)付近、護岸は石積み工法、現場に立つと当時の船の行き来が彷彿できる。仮に運河が開通し物資の流通や生活の往来に百数年以上の累積を経ているとしても不思議では無い風景と写る。(これは映画のカットシーンではないか、というのが関係者の独り言)
 
  未完の銚子横断運河−2 経緯
 元禄11年、掘割工事を出願したのが江戸日本橋馬喰町の石塚伝四郎という人物である。目的は船舶の安全走行であるというが相当な資本と労力を投入し一大事業に至った理由、また、反対の陳情や着手したが成功することなく中途で終わって経緯は不明である。
 下の写真は@利根川への流入 A新興橋 B新興橋から公民館の間 C公民館 D妙見町付近 E小川町から名洗町
新興橋から公民館までが当時の運河 河口入り口付近、公民館付近は直下型の護岸、妙見町付近はコンクリートの石積み、名洗付近は土地改良に伴う水路に改変している。
 未完の銚子横断運河は幾つかの課題を残したまま立ちすくんでいる。
◎銚子の近代史を読み替える事業と成りえたも知れない石塚伝四郎の思想と行動が見えない
◎復興に伴う区画整理は均一と合理的な都市空間を作り出したが固有な歴史と空間を無残に散逸したのではないか
◎「てんでんしのぎ」という生活意識は近代に対しかくも無防備であったのか
@  A  
B
 C
 D  E
   未完の銚子横断運河−3 掘割工事の現場
 私にとって「未完の銚子横断運河」とは@無名・無官の石塚伝四郎を呼び戻したい、A河・海・陸という銚子の地勢に素手で開墾しようとした意思を読み取りたい。
 300年前の掘割工事を辿ることは次の300年後を語る契機にしたいことに尽きる。先ずは新興橋に立って頂きたい。下の写真は当時の石積み護岸である。良く見るとひとつ、ひとつ、同じものは無いことが判る。更に良く見るといわゆる「銚子石」ではないか。石切から石積まで素手で切り盛りした様子が想像できる。 
     
   未完の銚子横断運河−3 掘割工事の現場−2
 調べて行く内に常世田令子著「銚子湊昔絵がるた」に出会った。「5 回想の滑川、港橋」で運河計画の挫折の跡だとし忘れられた謎の銚子築港港工事と述べている。周囲はすっかり変貌しているのにこの流れに面したとこだけが時間が置き去りを食っていると港橋のたもとにたった著者がいっている。著者の港橋はおそらく私が立っていた新興橋と思われる。
 当時、著者は名洗田んぼから流れてくる細川と眺めていながら「下総名所図絵」では川幅も広く立派な木橋が絵がかれているとしている。
今なお銚子横断運河とは謎を秘めた未完の運河である。
      未完の銚子横断運河−4 銚子石−1
 私の庭先には敷石として「飯岡石」を敷き詰めている。丸く平らな石で古くからこの地では塀や土台に、あるいは屋根の上に置かれ生活の用途に用いられていた。出所は屏風ヶ浦の断崖である。これまで気にしたことは無かったが軒先に「銚子石」が10個ほど軒石として並べられている。何れも良く見れば海辺の庭先にさり気なくとけ込んでいる。
 「銚子石」は砂が時間を経てかたまったいわゆる砂岩である。当時、銚子近隣で「石」を調達できる諸藩は皆無であった。唯一、銚子石「砂岩」は加工も易く利根川の流通に沿って近隣諸国に様々な用途に用いられていたという。仔細に調べれば限りない「銚子石」の存在が確認できそうだ。
 近世以降、江戸と東北を結ぶ拠点の銚子港は港湾、船泊まりを始め多くの護岸事業が伴っていたはずである。資料はな無いが「銚子石」はふんだんに用いれたと思う。
     未完の銚子横断運河−5 銚子石−2
 知人に「銚子石」の存在を話したところ、早速、市内を駆け巡り<石きり場>や塀、擁壁など探し撮影してきた。 
ここからは@「銚子石」の出所のひとつは現犬吠崎灯台周辺である A残されているのは外川町、海鹿島、高神新町、清水町など空襲に遭わなかった地域に多いこと が伺える。
 旧飯岡町では塀、擁壁など戦後、「飯岡石」のほとんどがブロック塀に置き換えられた。外川町でも同様に見られるが言い換えれば戦前までは道路から擁壁、塀まで「銚子石」が地域の景観を独り占めしていたように思える。
 たかが石であるが生活域で300年前から、自然史では一億年前と直に出会えるチャンスなのだ。
地域の保持している資源を発掘し、地域再生へ架橋する営みにこの「銚子石」の可能性を見つめたい。

犬吠灯台下の石きり場跡近くに行くと「銚子石」の砂岩を見ることが出来る

犬吠崎の石切り場跡、プールと呼ばれている

石きり場跡、現在は
ロイヤルホテルの大きな駐車場
 
海鹿島海岸先

海鹿島海岸先

外川町
 
外川町 

高神新町
 上の写真と場所は異なるが当時、銚子石が敷き詰められていた写真集銚子から

高神新町

清水町

清水町
      未完の銚子横断運河−6 銚子石−3
 銚子横断の運河構想に当たって、「銚子石」は護岸の石の調達、技術上、大きな役割を果たしたような気がする。目先に「銚子石」が無かったなら石塚伝四郎はこの構想へ着手しなかったかも知れない。17世紀中ごろ現在でいう土地区画整理事業といわれる外川町の町並み、、ここから各地の擁壁を見てみると外川町〜高神新町〜清水町へと時間の経過に従い、積み上げ技術の高度化が良く判る。
 下の写真は旭市の本町通り商店街で見かけた「銚子石」の擁壁である。持ち主であるイイジマ家具店の店主に聞いてみた。何時の頃か判らない、裏庭にもあるよと案内してくれた。道路沿いの石は風化し痛みが激しい。中庭の石は当時の姿を垣間見ることが出来る。
 江戸後期から明治まで「銚子石」は各地で擁壁、敷石、護岸、寺院などで用いられて来た。あちこちで無数に用いられてきたに違いない。地域の再生にとって目指す将来はそこに住む人が自らの力で作ることである。手作りのまち造りはそのひとつになる。「銚子石」の用途、使われた地域に思いを馳せるのは人の手による石切・運搬・加工・設置と天然の素材が醸す景観という<手作りの系>を手繰り寄せたいという考えからだ。                                   (7月 8日)
 
      未完の銚子横断運河考−7 銚子石−4                                     
 知人がまた<銚子石会所>の末裔の方を紹介してくれた。新興橋の近く人住む旧海上家を継ぐ池永さんである。先代が無くなり詳しいことは判りませんと言いながら伺った断片を整理して見る。(会所とは今でいう出荷組合ではないかという)
 @石きり場から運ばれた石は会所に蓄積、目の前から船で各地に販売された。Aこの周辺には数軒の石屋さんが軒を連ねていた。B過去帖から海上家は江戸時代から石の取り扱いを業としていたらしい。C海上家は犬吠をはじめ外川周辺まで石切り場として用地を保持していた。D石切りする人は高神の農家の方が多かった。E復興以前にあった船泊まりや護岸などは銚子石が用いられていた。F会所をはじめ石屋には販売された台帳など全く残っていない。 など
 判ってきたことは江戸時代から戦前まで石切り人、運搬人、石屋、会所とそれぞれが業として成立し、各地へ大量に「銚子石」が販売されたということであった。これまでの調査で石きり場は数箇所であったが実際は各地にこの数倍もあったことが判ってきた。また、疑問に出会っていたがそのうちの幾つかは了解にいたった。これによって「銚子石」の全体像がほぼ見えて来た様な気がした。
 数世紀に渡り、各地で様々な用途に使用されてきた。想像以上、広範囲に「銚子石」は生活の隅々に活かされていたようだ。だが宅地化や劣化により放置すれば自然消滅の経緯を辿ることは明らかである。ここからは「銚子石」の存在をどうして行くのか、その方途を探って行きたい。                                                         (7月12日)
 
50メートル先が新興橋の池永さん宅
 
家の脇には銚子石が無造作に積み上げられていた
 
小さい石は砥石に用いられていた
    未完の銚子横断運河考−8 銚子石−5 石切場跡
 これまで「銚子石」の産出現場、いわゆる石切場は犬吠灯台付近、ロイヤルホテル駐車場、水族館敷地などであった。その後の聞き取り調査で愛宕山周辺、万願寺周辺、外川周辺などが判って来た。何れも想定していた箇所であった。
 犬吠、高神、外川、名洗など地表面をめくれば銚子石を産出する砂岩で形成されていることが明らかになってきた。大雑把に言えば銚子半島を断面すると大半に<砂岩>が露出してくる。
 ここまで辿って来た経緯で「銚子石」の可能性について整理して見る。
@往時の「銚子石」の石切現場→搬出→出荷→運搬→使用現場を辿り、ここから復路として「銚子石」の使用価値・交換価値を探って行くこと

.愛宕山石切場跡、現在、池になっている

万願寺石切場跡、良く知られている現場

外川石切場跡、現在、荒地に
なっている
 
犬吠のマリンパーク 裏側から
 
荒れ果てているが右上は石切り場跡
    未完の銚子横断運河考−9 銚子石−6 銚子の地質
 出たら目をいっていると誤解を招くので念のため銚子の地質を調べてみた。(県史 千葉県の自然史 本編2 銚子地域の地質))
これによると「銚子石」は表面的には愛宕山層と銚子層からなっている。簡単にいうと礫岩・砂岩・泥岩がゴシャゴシャになって層を成している。時間的には愛宕山層はジュラ紀に属し銚子層は白亜紀という。同じ銚子石でも犬吠と愛宕山では時間的には数千年の隔たりがある。このため犬吠と愛宕山、黒生では石の資質が異なっているようだ。更に地質図の断面(3)をみると黒生、海鹿島、犬吠崎、長崎鼻でも異なった地層で成り立っている。
@  A  B
    銚子石の保存・活用に向けてー1 石材業 神勝 −1
 銚子石を調べてきたがひとつの転機を迎えた。知人と共に戦前から石材業を手広く生業としてきた屋号「神勝」を営んできた神宮寺さんから話を聞く機会を得た。(7月20日)先々、公開をしたいという条件で写真とテープによる記録を行った。
 戦前(大正時代)、海軍省より払い下げを受けた。犬吠の石きり場から搬入された石を船溜り(和田堀)から利根川で各地へ運んだ。利根川沿いから土浦辺まで多くはカマトイシ(鎌砥石)・カマドイシ(竈石)として金物店などに卸していた。戦後は愛宕山の土地を購入し、主に砕石として手広く商売を行った。旧佐原の小野川や江戸崎の大杉神社、土浦の亀城など「銚子石」が使われているという。
 下のモノクロ写真は罹災をまぬかれた旧和田堀前の神勝の石積倉庫である。(1)堀は埋め立てられたがこの倉庫は現在も残っている。「銚子石」が現存する貴重な建物だ。昭和17年当時、最後の犬吠石を切り刻み目的を省みず建築したという。外から見ても「銚子石」と思えない外観をしている。(2)近くで撮って見たが風化の現象は全く無かった。(3)本人神宮寺さんに聞いてみた。この石は同じ「銚子石」でも緻密で水分を吸収しない良質な、貴重な石だという。
銚子石の保存・活用に向け調査、資料の収集している旨、話したところこの石蔵を是非とも活用して下さいと前向きな話を頂いた。
 
                   神宮寺勝之助さん所有の写真を複製
 神宮寺さんによれば終戦時、米軍の焼夷弾で市内の大半は焼失、石造りのこの倉庫のみが残った、周囲の建物は戦後、新しく建てられたものだという。
 和田川の船だまりは江戸元禄年間に内港施設として築かれ、その後、改修を経て昭和28年埋立て現在の市街地に変貌してしている。江戸中期から戦前まで銚子港を代表する湊でもあった。この周辺は物流を生業とする人々の行き交いによって浜の賑わいを一手に引き受け独特な雰囲気を作ってきた。路地裏に分け入れば<衰退>というイメージに彩られいるが過っての<賑わい>を感じ取れる。
 仮に私が戦後間もない当時、この現場に立ち会っていたらどういう判断を描いただろうか!この問いを出立点に「銚子石」の保存・活用の方途を考えて行きたいと思っている。神勝 最後の勝之助さんの意志をどう引き受けて行くのか?
 写真@の文字は上部に「神勝旧本宅戦災不燃」、左下に「昭和参拾年頃の神勝、戦災に焼け残る、前は和田河船溜り、三方石庫で囲われて居たので焼けなかった、神勝の主業は銚子石材、採掘、販売、石は前の河岸から出した
」と記載されていた。  
@ A B
     銚子石の保存・活用に向けてー2 石材業 海上家 −1   
 前回、新生の池永さんから銚子石会所の話を聞いた。神勝さんの話を聞いてから帰りに植松町の海上さんへ立ち寄ってみた。江戸時代から「銚子石」を生業としてきた海上家末裔の海上さん宅である。昭和36年、新生から下の写真にある「銚子石会所」(1)と稲荷様(2)を現在地に移設したという。何れも銚子石である。銚子石会所は店の前に会った宣伝物で江戸時代から生業として来たことを考えれば世紀の代物である。海上さんに聞いたところ,先代が商売を止めたので古い史料は残念だがひとつもないという。
 @    A
    銚子石の保存・活用に向けてー3 カマトイシ(鎌砥石)
 先ごろ、神宮寺勝之助さんから「銚子石」の利用について伺ったとき、<カマトイシ>という言葉が一瞬、理解出来なかった。流れの中で農家が使う鎌を研ぐ砥石(荒砥)であることが判った。戦前まで銚子は屈指の砥石の産地であったという。
 思えば農薬が普及するまで雑草を取り除くには手で草を刈りとる鎌を用いるしかなかった。額から流れ落ちる汗を手でかき分け耐えるという時間を弄んでいた幼い頃が脳裏をかすめる。
 砥石は農家にとって欠かせない道具であった。石材業「神勝」が和田の船溜りから多くの鎌砥石を各地へ搬出した話は理解できた。人造の砥石が席巻した今日、銚子の「鎌砥石」の再利用は不可能かも知れない。現状では生活史という歴史の「鎌砥石」はページを閉じていく運命と言える。だが別な角度から<現在のカマトイシ>を再現する試みを期待したい。
     銚子石の保存・活用に向けてー3 浄国寺の銚子石
 知人が檀家の寺で「銚子石」が使われているかも知れないと浄国寺に出向いた。下の写真である。@本堂前に敷き詰められた銚子石 A様々な石像 B周囲の石積 など見渡せば寺中で「銚子石」が用いられている。13世紀に開創された浄土宗といわれている。当時のものとは判らないが風雪に耐えていることが伺える。
 @  A B
     銚子石の保存・活用に向けてー4 佐原 小野川沿いの銚子石
 香取市佐原の小野川沿いは旧来の町並みを修復しこの地域では独自な「賑わい」を日常化している。江戸時代から続く小野川の護岸は銚子石ではないかということで知人が近くに言った帰りに撮影してきた。
 改修されている箇所はコンクリートの護岸になっているが古い箇所は銚子石である。思えば川幅、石の積み方など新興橋から見る滑川と同じではないか。
 その後の小野川沿いと滑川沿いの差異は何であったのか。戦災という不可抗力であったのか、生活・商売への在り様が異なっていたのか、地域再生への住民・行政の取り組み方の相違なのか。物を言わない「銚子石」を介し差異を見つめて行きたい。 
   
     「港町のどんぶり屋」構想の中間総括−1 参考になった書籍
 港町のどんぶり屋は身近な魚屋さんから始まりあっちへ行ったり石屋さんまで辿り着いた。私の勝手な言い種に知人はその度に銚子の歴史を説明してくれた。あるとき、一冊の分厚い書籍を持ち込んだ。「景観形成の歴史地理学」という筑波大学の教授、研究者が関東周辺の地域特性としてまとめた本である。近世から現在までの銚子を時間と労力を費やし纏めきっている。書籍など当たったことがないものにとって無知な頬にビンタを喰らったようなものであった。
 恥をかかないため知識の集積として手元に置くべきである。中間総括のひとつは銚子という現実と想いの矛盾を脳髄が感知するとき、人が行き交う再生のエネルギーを蓄える装置とはどういうものなのか考えることであった。史料を纏めた研究者との相違はこういうことなのか。
 
 平成20年3月31日発行
編著者 石井英也
発行所 鞄宮書店
内容
@港町銚子の機能とその変容過程 

A銚子飯沼地区における河岸の景観変遷と商業活動
B下総国海上郡高神村における紀州移民の動向
     「港町のどんぶり屋」構想の中間総括− 2 てんでんしのぎ その後
  「てんでんしのぎ」は判ったようでどうも了解に至っていなかった。過日、知人は語った。それは銚子の原住民が居住していた地域で世界で言えばアフリカですよ、という指摘に虚を打たれた。確かに「てんでんしのぎ脱出記」では「興野のだんな、飯沼の衆、飯貝根(いがいね)のやんらあ」と差別された水産開拓民の貧しさゆえの生活意識と書かれている。
 世界史のアフリカ的段階は確かに貧しさの衣装をまとっているがその日暮らしに明け暮れる精神の豊穣さと裏表をなしていたとも言える。明日のことなど念頭になくふんどしひとつでその日を費やす「飯貝根」のやんらとは、過去の負の共同性から学ぶとすればどうも時間の観念のような気がする。生活の利便と引き換えに生涯を切り張りする生活意識を強いられているのが現在である。興野村、飯沼村、飯貝根村の生活意識は時間の観念を読み解くことで<賑わい>の共同性にも相違が見られるはずである。周りくどいようだが銚子における<賑わい>の重層化には必要な作業と思われる。
     「港町のどんぶり屋」構想の中間総括−3 どんぶり その後−1
 前回、どんぶりのイメージを提案し「賑わい」考に移行したまま今日に至っている。進化しているかといえばそれほどでもない。カタクチイワシに始まりサバ、スズキ、生マグロに至り、現在は夏のヒラメを載せている。お客の感想は、それなりにといえる。下がってきた器は何れも米ひとつぶ残っていないと言うのが従業員の返答。
 日本料理は中央では本来の生き様を突き進むか、革新的な技術で展開するか、担う料理人の繊細さと大胆さに映るが、裸形にすると本来にもっている素材にほぼ依存している。この点では客層の圧倒的違いを別にすれば地方・中央の差は無いと思うようになった。
 一方、流通・機器の進展は地方・中央の格差をほぼ解消している。 どんぶりもまた、素材と履歴、そして担う料理人に依存する時代を迎えた。港町のどんぶりはこうした現状の波に揺らぎながら次なる素材(銚子港水揚げ)をどんぶり化して行きたい。
 
いわしの漬け丼
 
さばの漬け丼
 
すずきの漬け丼
     「港町のどんぶり屋」構想の中間総括−4 界隈 その後ー1
 「界隈」についてどうもしっくりしてこなっかった。銚子の<賑わい>を表象する地域的な言葉でなかったからだ。知人や家内などの言葉から<賑わい>といえば銚子銀座のことのように思えた。昭和60年代後半、隣町に移住してから買い物といえば銚子銀座・十字屋へ家内の後に付いて行った。
 思えば十字屋が撤退してから家内の頭に買い物としての銚子は皆無になった。物販を主流とした地域商店街の<賑わい>は衰退を辿るというのが現実である。
 戦後を途に昭和60年代に幕を閉じ始めた「銚子銀座」とう時空間の反転が必要だ。生活物販以外に人々が集い楽しむイメージ創出が銚子銀座に変わる<賑わい>への一歩であることは周知の意見である。同時に銚子イオンに代表される<現在の賑わい>とも異なる時空間になるはずである。
 「観音界隈」は調べて見ると3層の時空間(共同性)で構成されていることが判った。それぞれの賑わいを抽出する。将来の銚子に固有な像を描く。その果てに<現在>を超える姿を可視化する。
 出来るかな!針のごとくか細い道であるが退路を絶って進んで行く果てにである。
食べる・見る・買う・歩く楽しみを発見するため、次なる世代に向けてもう一度「観音界隈」を摺りぬけて見る。
    「港町のどんぶり屋」構想の中間総括−5  界隈 その後ー2
 摺り抜けるため、もう一度「観音界隈」の時間軸を辿ってみる。
@古層は古代から近世まで「てんでんしのぎ」でいう銚子原住民の生活意識が育んだ共同性に当たる。
A中間層は江戸後期の関西圏を中心とした移住者による漁業・醤油などの製造業者が創り上げた新たな共同性。
B戦後、復興に伴う銚子銀座を中心とした地域を代表する商店街の共同性
C以上であるが<他所もの>という視点はどうも銚子というイメージが異なって映る。突き出た半島と坂東太郎の利根川が織り成す地勢的風土が脳裏を掠める。
@ABが時間の横軸とすればCは縦軸に該当する。湊・港・川・河・河川・河岸など中世から近代までその付き合い方には羨望と映るがどうか?これもてんでんしのぎであったのか、先ずは現状との落差を否定的媒介として将来像を見つめてみたい。
  「港町のどんぶり屋」構想の中間総括−6  銚子石 そのー1
 「銚子石」については各地で様々な用途に用いられている。その調査に足の動きが付かない。とり合えずこれまでの経緯を整理し方途を絞って見る。
 @ これまで彼方此方で述べてきたが過っての賑わいと異なる新たな<賑わい>の入り口として「港町のどんぶり屋」を構想してきた。
 A  この「どんぶり屋」を手始めに銚子港水揚げの地魚専門店の集合へが当面の課題。
 B この集合を構成する道しるべに「銚子石」を活用する。
 C  数十年単位で目測すれば一定の地区で銚子石による街づくりを目指していいのではないか、車道を歩道に転換する契機はこれが大きな理由になると思っている。
 
C  銚子石の保存・活用に向けての組織的活動に着手する。
      銚子石の保存・活用−パート2
 「中間総括」という括りで次の展開まで、しばらく時間を置きたいと考えていた。
9月に入り、久しぶりの休みに房総へ出かけ、富津市金谷で最近、出来た金谷美術館に立ち寄った。鋸山と石の産地である。だが地域資源として活かし石のまち造りが進んでいることは知らなかった。昨年5月、「石のまちシンポジウム」を開き、今年は10月23日24日に第2回めを開催する予定という。銚子石の保存・活用に向け知恵を戴く意味で今後は情報を伝えて行きたい。
 
金谷美術館 表面上部が房州石
 
房州石の石倉
 
房州石の石塀
    賑わい考ー15  銚子観音界隈の再生とは−1
 これまで銚子中心市街地の再生について<余所者という立場>からあれこれ考えて来た。しかし、考えれば考えるほど、或いは想えば想うほど難しいというのが率直な考えに至る。その思いの壁はひとつ、銚子という現状にどうも奥行きというか深さが見えないこと、つまり、戦後に復興された商店街を何とか立て直そうという時空間は例えれば笊のうえの咲いた華といえるからだ。ヤクザな言葉でいえば<シャターを閉じた商店街はお天道さまに顔向けできない>ということになる。そうではないかというのが返す刀になる。。
 初心に戻り再生への道筋を考えてみる。
これまで<銚子の時間軸>を三つの層に腑分けしてきた。その内、行政を始めとした地域の再生とは現代という時間軸を将来に向けどうするかであった。戦後という非常に短い時間軸である。言い換えれば「てんでんしのぎ」でいう銚子の古層や移住者による銚子の経済社会の共同性が育んだものを地域の財産として再生へ具体的に取り組んできたのか、が全く見えないということであった。 
   賑わい考ー16 銚子観音界隈の再生とはー2 白紙の将来
 過っての街の姿とか生活の在り様などを手繰りする、これを基に将来の姿をデザインする、というのが再生と考えていた。
 ここに来てやっと、これとは異なったベクトルで再生のイメージが見えてきた。土台が確定しないので白紙に描く。白紙の上では点が自らの将来を向けそそり立つ、だが点はまだ点に過ぎない。賑わい考ーXのうち幾つかが動き始めた。
    賑わい考ー17 銚子観音界隈の再生とはー3  白紙にデザインする−1
 先ず、賑わい考X Bの人材が中心市街地の衰退の際に立ち、再生を自らに課し「銚子まちづくり会社」の設立に着手した。従来のまちづくり・組織の在り様とは異なる「港町のどんぶり」を出立に地域の人々に再生へのエネルギーを語り、10年、20年先の街に向けた仕組みづくりが任務になる。
 はっきり云うべきである。衰退に至った理由も、再生も、そこに住む人々が自らが汗水流して歴史を改変する以外にない。この<流し方>如何に余所者が連帯として銚子の観音前に佇むかになる。
 言い換えれば銚子に訪れる人々・そこに住む人々・そこに新たな<賑わい>を作り出し将来に夢が描ける仕組み、幾つかの専門店の出店である。この専門店が新たな<観音前街>の中核を形勢することが当面の計画となる。
     賑わい考ー18 銚子観音界隈の再生とはー4  白紙にデザインするー2
 B番のプロジェクトXを担う人材は今、観音前を改変する現場に自分を曝け出している。こういう現場は人生の中で二度と無いから徹底してやって行くべきである。衰退を再生に切り替えるチエェンジではないか。
 いろいろな意見で出合っているようだ。駐車場をどうするのか、車を止めて歩道にするのは出来ないのではないか、どういうイベントをやっていくのか、など目先の問題にきりもみしている。
 はっきり云うべきである。昭和30年代以降、今から考えれば衰退の一途を辿って来た現場とは、
ひとつは急変する時代に対応する商いとは、若い人が減少する地域社会の共同性をどうしていくのか、こうした課題にどう原型的な答えを提案して行のか、直面している。
 従来型の補助金を前提とした行政の仕組みや民間のコンサル業務はほぼ解体しているといっていい。時間軸にして数年の幅で競うあっているに過ぎないからだ。
 白紙のデサインとは従来の行政の考えとか仕組みに依存せず<汗水流す新たな共同性>を土台に考えている。共生という言葉を与えたいがそう軽く語る言葉でない。幾つかの点が自転し結び合う時に発する呻きに新たな共同性の芽に期待したい。
  賑わい考ー19 銚子観音界隈の再生とはー5 白紙にデザインするー3
銚子街づくり会社の設立に伴い、「港町のどんぶり屋」も具体的な構想の着手が迫られてきた。
 二つほどの課題を設定したい。 ひとつは入り口のデザインと新たな銚子観音前<再生域>のビジョンである。
 入り口は人を呼び、お腹と心を満たし次なるシグナルを発する磁場と考えている。別な言葉を借りれば既存の銚子と異なる世界で在りながらほんものの銚子に出逢う磁場でもある。
 どんぶり屋は形式上、飲食店営業であるが実態は<磁場発信>としてシンクロナイズを平常心に刻んでいいと思っている。 
  賑わい考ー20 銚子観音界隈の再生ー6  宣伝のポテンシャルとは 
 銚子観音前の再生を応援する学生の皆さんと話する機会があった。40年前の時代を思い出しついつい言葉が弾んだ。田舎に住み地域を何とかしたい気持ちで集客を考えることと、都市に住み何かを求め
地域に足を運ぶことのギャップを知らされた。
 話を要約する。「口コミ」を例にとって見る。これまでは地元の産品を素材に仕立て、手作り商品などとして新聞やテレビ、雑誌などが宣伝媒体となってきた。これと異なる方法が先端で競いあっているようだ。ネットを前提とした口コミは意外性とか、特異性とかなど携帯カメラが瞬時に伝達する世界を商品に転化すること、一方で、企業の在り様が如何に社会性を取り込むかなど、<個>を如何に揺さぶるかが先端の指標に思えた。
 時代の動向とは別に家族と従業員を抱え不明なる将来を束ねる現場との差異を見つめると銚子観音前の再生はこうした時代の指標に晒されながらも独自な方法を編み出す、これをポテンシャルにしていいのではないか。
    銚子観音界隈の再生−7 銚子石の収集と活用−1
 賑わい考ーXEが点として自転を始めた。
これまで銚子の過去と将来を手繰り寄せ、道標として「銚子石」を調べてきた。この銚子石を収集し活用する方法が二つほど巡って来た。ひとつはジオパークとの関連、千葉科学大学との提携、もうひとつは観音の近隣で石材業を営む明石さんからの協力であった。
 10月29日、明石さんの事務所で銚子石について話しする機会があった。切ったり張ったり技術的なことに集中したが、あまり手を加えないのが良いのではないかとなった。
 11月4日、銚子石材加工組合の皆さんに臨時の会合をお願いし、銚子石の回収と利用について説明する機会があった。ことの次第を説明し、来年3月、どんぶり屋の開業に向け組合を挙げ銚子石の回収する協力を頂戴した。賑わい考X-Eの協力
  銚子観音界隈の再生−8 銚子石の収集と活用ー2  
     銚子石はウ゛ィンテージになるか

 自然的時間に晒されてきた表情を活かしランダムに並べる時が織り成す表情の味わいとは、一億年前の時間にさかのぼる、銚子でなければ体験できない地空間、新たな銚子の入り口にふさわしいのではないか。そして、店舗と店舗を繋ぐ,銚子石で敷詰められた通路に人の道として新たな賑わいをイメージしたい。
 
銚子観音界隈の再生ー9 港町のどんぶりー仮称「観音食堂」のパースー1
賑わい考ーXFの提案
 どんぶり屋の生き様に興味を持った社会人・学生の組織「リキッド」から早速、仮称「観音食堂」のパースが届いた。こちらの考えがうまく伝わったのか判らないが良く出来ているなと率直に感じた。
 幾つか交信してみたい。@生き様は威勢のよい魚屋さんのスタイルかな! A時代は銚子の濃い口醤油と魚が江戸の食が生み出した頃かな! B目指すは濃い口と魚が絶品する天ぷら・どんぶり・寿司など<食いものや>の風景かな! C後は<食いものや>というインスタントにどう限りなき奥行きを作り出せるのか!ここが「銚子石をモチーフにした界隈の通路」という独自な時・空間に成れたらというのが素人の感想だ。試行錯誤が深化へ唯一の条件と付き合って戴きたい。
     銚子観音界隈の再生ー10 港町のどんぶりー仮称「観音食堂」−2
 パースに添えて「リキッド」からメッセージがあった。関心を引いたところだけピックアップして見る。
@目標には、若者がこの町でビジネスや商売をしたいと思うようなところにする。
Aどんぶり屋を銚子ブランドの戦艦店にする。
BPRの目標に どんぶり屋に込めた人々の熱い思いを理解、増幅させる仕組みをつくる。
Cターゲットを3点挙げている。バイクで旅をする若者、グルメで旅行好きな中年女性、美術大学生、こういう絞り方は「リキッド」らしい。
DPR戦略は店舗デザインを巡ってだ。ここからはもう少し、時間をかけ是非とも立ち寄って見たい「新しい銚子の入り口」を互いに模索したい。
    銚子観音界隈の再生ー11 港町のどんぶりー仮称「観音食堂」−3
 模索したい理由を言って置きたい。これまで自分が住む街の商店街、全国あちこちのシャターを閉じた商店街、あれこれ手を尽くしたのに何故、衰退の一途を辿ったのか、どうも分らなかった。
 恐らく、そこに住む人たちも理由が分らず立ちすくんで来たに違いない。だが、ここに再生の拠点を描こうと意志するとき、他人事のようにやり過しことは出来ないと思った。
 今日、極上さば祭り試食会の後、再生の拠点である観音前に佇んで見た。シャターを閉じた商店の看板は昭和という時代の刻印を残し<無残>を晒していた。この刻印を活かし、生活や共同性を再編する仕組みをどう描くのか試行して見たい。従来の切った張った血のない再生プロジェクトを超える道である。
    銚子観音界隈の再生ー12 港町のどんぶりー仮称「観音食堂」−4
 リキットのメンバーS君からメールが届いた。トリプルメディア、OwnedMedia、EamedMedia,SocialMediaという言葉を運んで来た。いずれも始めて聞く言葉だ。どうも時代の先端を走ろうとするビジネス世界がここで先を争っているように聞こえる。自分なりに解釈してみる。業界とか行政を軸にした縦型の宣伝活動が<自社メディア>、横型の型が広告メディア、そしてソーシャルメディアはインターネットを介した水平型に腑分け出来る。ソーシャルだけが何者かだが何れも欧米型の思考をビジネス化した世界のように映る。
 時代の末端では旧来の共同性が解体し今、ひとり、ひとりの繋がりをどう築いて行くのか切実に問われている。先例が無いので個的には想像力を、そして固有な集団の論理を持続する仕組を担うのがまちづくり会社の理念といえる。新たな個と従来と異なる集団が生み出すもの、これが日本型のソーシャルに通ずると考えている。若い人がビジネスの世界で生きるためにはソーシャルを斜めに構え<哲学>することが必須といえる。この意味では末端に分け入り自己を磨くことが現在の<哲学=実践>ではないか。
      銚子観音界隈の再生ー13  銚子石の収集と活用ー3 銚子石の運命
 たまたま新興橋を通ったところ橋の両脇に工事用の機械が並び、銚子石で作られた護岸が壊されていた。「未完の銚子横断運河考ー1」始まりの滑川である。聞くと橋の付け替えに伴い改修するという。工事を担当する人には単なる石かも知れない。この間、銚子石を調べ地域再生の必需品と考える者にとっては<無残>な光景と映った。<衰退>とは想像力を欠いてしまった結果のように思えた。
 
      銚子観音界隈の再生ー13 港町のどんぶりー仮称「観音食堂」−5 
 過って賑わい考ー19で「どんぶり屋」の入り口のデザイと観音界隈の再生ビジョンを掲げた。現在、これに直面しているのが先頃に設立した「銚子まちづくり会社」の当面の課題と「銚子観音前わいわいプロジュクト」の具体的なビジョンである。
 ビジョンを巡って幾つか考えを整理して行きたい。
これまでオーソドックスな手法であるが銚子の潜在的資源を掘り起こし、経済も、人間的つながりも将来の夢も萎縮する現在を否定的に媒介しながら観音界隈の再生を構想として示すことであった。
 時間軸として「銚子の古層」・「移住者による地域産業」・「戦後の中央銀座」という三層の共同性を見つめて来た。いわば祖先の知恵を辿り新たな銚子の「賑わい」という物語の創出である。
 空間軸ではネットを介し従来とは全く異なる関係・交通を手繰り寄せ「賑わいという界隈」へ集客の仕組みである。
     銚子観音界隈の再生ー14  「わくわく門前町プロジェクト」−1 組織のイメージ
 銚子まちづくり会社設立の過程で「わくわく門前町プロジャクト」構想が提案された。いわば観音界隈賑わい再生の具体的な仕組みと当面の到達点をどう描くかであった。
 構想では二つのことが示されている。
先ず2年間という時限を区切っていること。この中で港町のどんぶり屋を皮切りに数店の専門店を構築すること。銚子石を路地に敷き詰め独自な景観を創出すること。など⇔新たな銚子の入り口
 これを実現するため「銚子まちづくり会社」は地権者等の交渉・貸借関係・専門店の構築などを担っていくこと。言い換えれば事業として成立させていくための管理・運営と地区の景観をどう維持していくのかである。⇔新たな定住による地域再生
 厳しいハードルであるが新たな銚子の魅力を生み出す10年、20年先の夢を実現するに二度とないチャンスである。この活動をどう展開して行くか、<わくわく>をキーワードにして行きたい。
 行政の仕組を前提としない組織の在り様とは。 
 結果と責任を自らが背負う、2年後には参加する個の夢を少しでも実現できる! 個と集団が織り成す変態というベクトルが組織の源イメージである。
<わくわく>とは変態を常態とする運動域の概念と考える。従って個の開花と組織の再編が持続的な発展を遂げるという内的な論理が組織の核になる。
    銚子観音界隈の再生ー15 「わくわく門前町プロジェクト」−2 2年後のイメージ−1
 これまでどんぶり屋の開設を始点に2年後には5店ほどの専門店を立ち上げ「わくわくする門前界隈」を構成するイメージを提案して来た。
もう一度、どんぶり屋のイメージを整理しておきたい。
@かって銚子の濃い口醤油と江戸前浜の魚が寿司、天ぷら、どんぶりなど新たな江戸の食文化を創りだした。以降、濃い口と大量の魚介を送りだし江戸の台所の役割を果たして来た。だが自らの食文化を生み出すことが無かった。「わくわく門前町プロジェクト」では銚子港水揚の魚と濃い口を活かし新たな銚子の味を専門店として展開する。時代を通過する固有な味をどう表現して行くのかが<賑わい>への道と考えている。 
      銚子観音界隈の再生ー16 2年後のイメージ−2 若きリキットの諸君へ
 発足して間もない銚子まちづくり会社は「わくわく門前町プロッジェクト」を載せ、2年後に初期の目的を完遂させる航海に出立しようとしている。会社の理念に賛同し出資した皆さん、プロジェクトに賛同した皆さん、とりわけ若きリキットの諸君、一等航海士して協力を願いたい。
 @新たな銚子の食文化を創出し、新たな定住による地域再生に向け、これを担う人材を広く、且つ確実に募集する方法
 地域の閉塞感は就職に至らない多くの学生諸君と確実に通底し共有出来る時代に入ったなと考えている。このままで行けば確実に時代から取り残されて行く、時代のまった中に飛び込み起業する営みから地域を再生する、学生諸君を対象にこの方途を提案したい。
 恐らく、観音前に佇むときその衰退の際に大半の人は目を背けるだろうと思う。現在の若さがこうした事態へ躊躇なくのめり込む出来るか、わくわく出来るか、若きリキットの諸君!衰退の極を巡る再生の営みは3年5年先を想定するネットを介したビジネスモデルになり得るか、これは君たちの問題だ。
     
    銚子観音界隈の再生ー17 2年後のイメージー3 若きリキットの諸君へ
 予測の付かない時代に明確な輪郭を備えた像を提出することは無謀と先見を計りにかけることになる。
 それなりの大学を卒業し、それなりの会社に職を得てそれなりの生涯を描くモデルは個の内部の中心からズレてきているように思える。 地域ではもう20年前から親の職業を付かないのが当たり前になっていた。無謀と先見という矛盾が生み出す領域を確定する、これが時代を分別する論理になって来たようだ。
 どんぶり屋と界隈の専門店を担う人はこの論理を背負い、2年先に起業と観音界隈の賑わいを体言する人材と想定している。この人材を引き受け、通常5年経る育成、技術ノウハウを5ヶ月で完成るさせる仕組みを創ってきた。
     銚子観音界隈の再生ー18  もう一度「どんぶり」について
 これまで「どんぶり」についてあれこれ語って来た。掬い束ねてみると地で獲れたものに旨さに引き立てる調味料や周りで栽培されいる野菜なで味を整えるごく自然な作法であった。この味を調えるという作法は本来の旨さを如何に引き立てるかという西洋に比する日本料理の「引き算の演出法」である。
 つまり、銚子で獲れた最高のものを素材に地元の調味料と野菜など、無ければ作り出す作業が基本となる。
 今、掛け値なしに「引き算の演習」を実践しようとすれば同じく掛け値なしの<哲学>を必要とする。そして、現場では如何に売り上げを伸ばすか、利益を上げるか実利の哲学が支配している。「どんぶり」はこの狭間で<わくわく>とう実践の論理を世に問い、開店を迎えることになる。
 おそらく、銚子港水揚の魚を全て<どんぶり>化するという実践が当面の課題となる。
      観音界隈の再生−19  仮称 わくわく門前塾の提案−1
 22年11月26日、銚子まちづくり会社を中心にわくわく門前町プロジェクト」は発足した。よくよく考えてみると、これといった資金もなく先見を頼りに無謀ともいえる船出をしたようなものだ。時代の転換はいつもこうだったのかと押えて置きたい。
 プロッジェクトは2年間という限定で着地点を設定した。先ずはどんぶり屋を先達に4店位を開店させ、界隈の賑わいを次なる再生への過度として位置付けている。
 よく見詰めてみるとこのプロジェクト構想にはことを成す人間の問題が欠けていたようだ。この問題を解決する方法として<塾>が浮かび上がってきた。
      観音界隈の再生−20 仮称 わくわく門前塾の提案ー2 可能性
  
銚子の5年から10年先を賑わいをキーワードとして想定したとき、時代を分ける先達は二つ。実践の論理では次のようになる。
 @地産の魚介を活かした独自な料理と、銚子固有な賑わいを<ナショナル>として展開できるか。
 Aこれを担う人材を如何に創出(育成)出来るか。
 B人材育成のプログラムと指導者を早急に創り出せるか。
     観音界隈の再生ー 21 仮称 わくわく門前塾の提案ー3 塾の骨格 
 
先ずはわくわく門前塾の骨格について考えてみたい。
学習塾のような営利を目的にする集団でもなければ、松下政経塾のように財政と理念を予め持っている集団でもない。歯止めがかからない地域社会を何とかしたいとう人間が集まり、最終的に人間の問題に行き着いた結果、これを打開する方途に<塾>という営みを見つけ出したのだ。
 そして、時代の分かれ目に老い、若きも佇んでいる。この際、若い人たちに託そうではないか、転換を図る試みに賭けた訳である。
 幕末ならば様々な草莽集団の取り組み例と考えられるが現在では、塾の目的は@地域に人を呼ぶ専門店の起業とA地域の再生を担う人材育成となる。理念などは後になってから気づいていいと思ったいる。 
     観音界隈の再生ー22 仮称 わくわく門前塾の提案ー4 塾の論理
 現在のところ、来年の1月末位に人材募集、4月に始まりこれから2年間の時限を決めている。その内容は例えば処遇は松下政経塾を極めてコンパクトに、その研修は緩やかに、大雑把になるが目的と個的利害の乖離を門前塾では<わくわくという実践>で示して行くことになる。
 振り返ると観音界隈再生ー14で個と組織の在り様を変態というベクトルで考えていた。人間を中心にしたとき塾の論理となるのではないか。時代が転換するとき、指導するもの、指導されるものという常態が共に変位する在り様となるからだ。塾とは簡単な喩えで、卵から雛に変える時に注がれる無償の情熱の共有箱といってよい。
     観音界隈の再生ー23 仮称 わくわく門前塾の提案  塾の展開 序−1
 昨日、ブランクの諸君と<門前塾>の展開について話あったところ、翌日にはHP上でプログラム案ー1が掲載された。地域と人間をいっきに転換する方法論を<塾>という形態で考えていたが彼らの方が先を進むかも知れない。
 言葉の風を贈って来た。バタフライ・エフェクトと花畑の論理を、先々の展開を何か暗示する新鮮なイメージと受け取った。門前というフイルターを通すとき「わくわく」が合言葉になるようなシーン、つまり序の共有である。 
     観音界隈の再生ー24 仮称 わくわく門前塾の提案 塾の展開 序ー2
 塾の展開を目前に控え、自分を戒めるためにも地に着いた<わくわく>を整理しておきたい。
 バタフライの論理は解らないが蝶と花はわくわくの内実をうまくつい突いているような気がする。彼らは常に自らの論理で行き交う。その仕組みを取り出せば、直感で現実を論理化しその論理で現実を改変する、人間の側の論理、つまり<わくわく>という実践の輪廻となる。
 蝶は花の時期に合わせ、卵を産み幼虫から成体へ、つまりさなぎからチョウへ変態する。自己を変移することで成長する。
 その時期に野原に出て一度でいいから体験したほうがいい。自然の成せる技に脳幹がビビルはずである。
 負荷を与えない自然の仕組みを「わくわく」の原基に出来ないか、未明の地域社会を改変するシステムに変態の論理に応用したいと考えている。では若きブランクの諸君、どう思うか。
 これで衰退の際に呻く地域という原野に新たな地平を生み出す若さと始まりを共有したい。
     観音界隈の再生ー25 仮称 わくわく門前塾の提案 塾の展開 塾論ー1
 かって観音界隈の再生を考え始めて来て以来、転げ落ちる地域の商店街を見つめて来た。当の現場では@店は閉じたがこれからはどうすれば良いのか A体のゆうことが利かなくなれば止めるしかない B店を続けて行きたいがもう商売が成立して行かない など店を開ければ人が行き交い店員を雇うなどという展開は過去の姿となった。
 これまで共同性では<てんでんしのぎ>どいう中世からの共同性。商いでは江戸中期からの漁業・醤油製造・利根川を介した交易。そして、観音界隈を中心とした賑わいを辿って来た。振り返って見れば未来では無く、商売の論理、地域の共同性の論理、人間の論理、いずれも衰退と萎縮の日常であった。
 この論理の極まりをどう改変するか、突き詰めた結果、一気に解決する方策として塾の論理に行き着いた。
 縦軸としては過去を徹底的に論理化すること、その論理を反転し、現実化する方法論、これが<変態>という実践的な塾論を目指す始点と考えている。
 横軸は指導という技術を媒介にした修得論である。地域の将来を形作る人材、これを輩出をする仕組が塾論の課題となる。
      観音界隈の再生−26 わくわく門前塾の提案 塾の展開 塾論ー2
 塾の展開に当たり、その構成や進行について既存の知を調べる方法がある。今回は海図のない航海にあえて挑戦する意味で内部から沸き驕る論理を武器に組み立てて行きたいと考えている。
 当面を思い出すまま幾つか取上げてみる。
@再生論  実践域では既存のものは吟味のうえ再利用することを徹底化するプログラムの構築。
 そのひとつ、緊急の課題に「どんぶり屋」の店舗再生、閉じている店を飲食店を改変するデザイン・設計・現場監督の育成。
A展開論 既存の仕組みを転換し将来の像を画く。例えば、江戸中期に遡り、濃い口と銚子前浜をどんぶりに載せるという「どんぶり屋」の商品構成・製造ノウハウの構築。
B人材育成論 

C新集客論

 こうした事例は開設されていないが既に仮想の<門前塾>とし進行しているといってよい。
    観音界隈の再生ー27 わくわく門前塾の提案 塾の展開 組織論−1
 ブランクの諸君が組織論を展開してきたので、次の段階に進むため幾つか整理したい。
人は何かを思い、実現したいとき、他者と交わり共同の意志を確認する。組織が生まれ、そして、共同性という名の下に人を活かす事もあれば殺すこともある。このごく平凡な在り様に人々は人類史以来、何時も未来を託して来た。もうひとつは消滅するという前提を延期し害を巻き散らかして来たことだ。
 周囲を観て見る。小さなサークルでも企業でも、或いは国家でもその本質は貫徹されている。人々は常にその共同体の意匠をまとい人生の大半を職業という形で生活を営んで来た。言い換えれば、固有な生活があるように固有な組織に自己を透写し生涯を閉じて行く。これが組織論を考えて来た前提であった。
   観音界隈の再生ー28 わくわく門前塾の提案 塾の展開 組織論ー2
 これまで房の国、末端に位置する銚子の推移を共同性のレベルで俯瞰してきた。組織論の対象としてまな板に俎上出来るのは江戸中期以降、紀州を中心に漁法や醤油製造など携え銚子に移住した人々の在り様である。ごく有り触れた農漁村の地盤を再編、近世史を築いて来た。当時の閉鎖的な共同性から考えると<移民>という生活者が土着する経緯である。想像力だけに頼ってみる。
 土地を開き、雨露を凌ぐ家屋を作り、港を築き、船を製造し、水揚された魚を干しかにし、倉庫を作り、商いを始め、、、、、、などなど、この時空間を論理化し、方法論に転化することが組織論となる。
    観音界隈の再生ー29 門前塾 塾の展開 組織論ー3
 先ごろ開かれたプロジェクトの会議で 「門前塾」を提案、了承されたのでこれからは実践的な課題に取り組んで行きたい。
 先ずはー28の続き、これらを常世田令子は「銚子湊昔絵がるた」で漁業と醤油製造を基盤として湊の発展を図る江戸期海商民の生きざまと記している。農漁村の先住民と<移民>という異質な生活意識が共存に至るまでの変容に想いを致す、門前町に新たな商売と人材の育成を考えたとき、実践の基点になると考えて来た。
 わくわく門前プロジェクトの構想は予想を超えて理解を戴いた。だが実践論としては幾つかのハードルが待っている。過去を辿り再生を論ずる、地に乱を起こし現実を再編することとはまた、別の経路である。乱を起こす新風が必要である。言い替えれば<門前組織論>とは別な<新風組織論>が固有な経路で組織されることである。わくわくは地域と世界が同時にリンクする仕組みと想定している。
 組織論は必ず現実という媒介を経て固有な姿を創りだす。この経路を辿ってのみ想いを我が物に出来る。ブランクの諸君、冷静に<風>を組織していただきたい、<風>は何時も世界に向かって羽ばたいて行ける。
      門前塾−1  塾の展開  塾の概要 
 地域と世界がリンクする仕組みは、飽和に達している既存の情報手段が転換することを想定している。少し、てこずったが今日、初めて「ブランク」のHPを手にした。転換する技術の総体は解らないがブランクの諸君がその過度を自己組織しようといることは了解できた。
 門前塾の概要を示したい。
主宰するのは塾代表ほか数名の運営委員、その構成はまちづくり会社、塾、塾生となる。塾生は5名、講師陣はプロジェクトのメンバーを中心に10数名になると考えている。運営資金は塾費、飲食店営業利益、寄付金などを充てる。文字通り手造りに等しい門前塾である。
 実習はどんぶり屋を始め4店の店舗構築、飲食店営業が伴うため、まちづくり会社の従業員となる。
塾のプログラム、スケジュールは店舗開店を軸に組み立てることになる。
 既存の塾などと違いは起業・営業というリスクを主宰者・塾生が背負うこと、汗水流して得る成果はそれぞれが獲得し次なる展開に繋げること、などである。
 再生という未知の域に海図を持たず航海に出立する。その意志が塾を支える基盤である。その展開はわくわく門前町プロジェクトが総力を挙げることになる。
 募集要綱などは会議を経ることになる。 
      門前塾ー2 塾の展開  塾の募集要綱
 理念を現実化するとき、現行の様々な規制を掻い潜って行く。従って募集要項はごく平凡な様式となる。わくわく門前町プロジェクト、ブランクのHPで告知する。 
       門前塾ー3 塾の展開 未知の塾生諸君へ-1
 港町のどんぶり<観音食堂>は観音前のシャターを閉じた店を再生し開業する。この店舗の構築、営業が塾の実習現場となる。賑わい考−X@の地権者からプロジェクト代表が足を運び、この年末に至り僅かの賃料で自由に使って良いという同意を正式に戴いた。地域再生を考えるとき、橋頭堡としてある面では画期的な出立点になる。
     門前塾ー3 塾の展開 未知の塾生諸君へ−2
 どんぶり屋の開業は二つの命題を抱えている。ひとつは商いとして成立させること。二つ目は建物を借りて賃料を払い、地域の再生をつくりだすこと。云いえれば「所有と利用の分離」という仕組みの導入である。
 これによって、私的所有と共同利用という相反する矛盾をコントロールし、景観の再生・維持に可能性が出来ることである。門前プロジェクトは独自な共有の論理を産み出し、その結果、多くの時間を費やしながら固有な<賑わい>を目指すことになる。
     門前塾−4 塾の展開 未知の塾生諸君へー3
 まちづくり会社は利用とい視点で地権者と商店会との同意を得る。これによって地域再生の担い手の役割を果たすことが任務となる。
 並行して地域の賑わいを持続的に展開する門前町固有な景観作りが門前町プロジェクトの方法論となる。先ずは銚子石を門前へ備える。
何れも江戸中期以降の共同性が産み出したプラス・マイナスを否定的に媒介するかにかかっている。
    門前塾ー5 塾の展開 未知の塾生諸君へ−4
 コアフォーラムの会議が開かれ「門前塾」へ意見を頂戴した。人はわくわくするとこうすべきだとか、こうした方がいい、という精神の回路を満たす。未知の塾生諸君!君たちを迎えるため、あれこれ議論しているところだ。
 塾で何を学び、修得しその後にどう役立つのか、入りと出を明確にすべきだ。講義内容とそのスケジュールをどう展開しょうとしているのか。どういう方法で募集するのか。などなどであった。今月の11日、わくわく門前町プロジェクトはSET SALL MEETING(出帆式)を開き、君たちを迎えるため具体的な提案をする予定だ。 
     門前塾ー6 塾の展開  未知の塾生諸君へ −5
  地域の再生というごく当たりまえの成り行きに従来と異なる提案を示して来た。ひとつは地域に生活する人たちに「所有と利用の分離」、次に地域を担う人材に自分の生き方を自分で考え、生き方を変える、この未知に向かうイネルギーをどう変換するか、これまで培ってきた共同の力で<わいわい>しょう、これが塾を考えた趣旨であった。
 時代の転換期に遭遇し、無から有を産み出す、この論理に固執して行きたい。起業に考えれば手持ちの資金が無くとも人々の求める商いを成立させる新たな仕組みを創る、ことである。    
     門前塾−7 塾の展開 未知の塾生諸君へー6
 いま、門前塾では未知の塾生諸君へ塾の案内をどう伝えるか。前代未聞の<就活>に手間取っている。
 ひとつはブランクがネットをを介した案内方法の企画である。最新の技術を駆使し君たちに新たな<就活>の方途を提案するであろう。
 1月23日、塾の説明会を予定している。ネットを介し自分の生き方にチャレンジしていただきたい。 
    門前塾ー8 塾の展開 未知の塾生諸君へー7  
 門前塾は出帆式を経て船出した。今後について 「わくわく門前町プロジェクト」は塾の説明会(わくもんカンファレンズ http://wakumon.blnk.jp/cnf/)に向け案内を開始した。その採用方法について、若きブランクの諸君がツイッター形式を用いHP上で展開しているのでここから入ることになる。
また、23日には説明会をネット上で同時放映するので参加できない人は、これを見て見て申し込みの手続きに進んで戴きたい。
     門前塾ー9 塾の展開 未知の塾生諸君へー8
 門前塾は4月1日に開塾の予定だ。
 それまでの日程を示して行こう。2月7日に申し込みの締め切り、応募用紙を送付、2月14日締め切り、書類選考、2月27日面接、3月1日決定のお知らせ、その後、住居等に伴う様々な手続きなど、若干の変更はあるがこの予定で進めて行きたい。何れもメール等でやり取りすることになる。
  4月1日以降、どんぶり屋の開店までの日程を示す。当日は塾生を向かえ歓迎の儀式を行いたい。2日目からは次のカリキュラムを考えている。
 6月中旬にどんぶり屋の開店、5月末に店舗の改築完了。
@それまで塾生は8時から3時まで現場監督・プロジェクトメンバーと共に改築の作業に従事。空き店舗再生のノウハウを直に体得する。
Aこれと並行して次の講座を予定している。大きくは
 (イ)材料の仕入れ・加工・鮮度保持・保存のノウハウ
 (ロ)調理場・保存庫の設備、調理技能、食品衛生など飲食店営業のノウハウ
 (ハ)企業運営に伴う経理・法的実務
 (ニ)お客受け入れに伴う様々なサービスマニュアルなど
概略であるが、同志と明日を語り飯を喰らう姿を示したつもりだ。
     門前塾ー10 塾の展開 未知の塾生諸君へー9
 塾とう形態を脱ぎ去ると、銚子まちづくり会社がどんぶり店を開店する、従業員を雇用する、ことである。非常に判り易い説明だが本来の趣旨ではない。
 塾開設と共に銚子まちづくり会社の従業員。同時に<塾生委員会>を結成、門前町プロジェクト・銚子うめぇもん研究会のメンバーとなる。
 7月以降の予定を続ける。
 @どんぶり店の内容を充実し、飲食店運営と集客実務のノウハウが実習の現場となる。
 A第2店目の開店準備(11月から12月に計画)、起業のノウハウが第2現場となる。
   専門店の骨格、事業計画、空き店舗再生、開店に向け塾生委員会が中心に進めて行く。
 B起業、地域再生、リーダーを担う本格的な講義は週3〜4回程度、開催する。 
 汗水を流し、プロジェクトメンバーと<わくわく>し技術と知識を修得する日常が第2のステージである。
 今日、朝日新聞、求人の「仕事力」でパキスタンで活躍している医療NGOペシャワール会代表の中村 哲氏の意見が掲載された。「道具は走りながら拾う」とう現場に徹底した生き様の披露である。ともかく汗水を流すことで言葉も、環境も、習慣もやがて解決して行くという、塾の展開の指標となる。
     門前塾ー11 塾の展開 未知の塾生諸君へー10
 23日塾生募集の説明会(わくもんカンファレンス)を開催。PR不足もあって参加者は予想を遥かにしたまわった。
 4月1日の開塾に向け、彼方此方に足を運び「起業と地域のリーダーを目指す人材育成塾」を説明して行きたい。10年先を夢見るとき目下の困難はその一歩に過ぎない。その一歩を<像>を頼りに考えて見る。
 地域の将来を担う能力を引き出す、一風変わった人材を想定している。言い換えれば「異能塾」を想定している。その異能を軸に<わくわく>は地域の人々が夢見る像を数値化し共同性として現実化する方程式に変換するシステムに成りうる。だからひとつい、ひとつの失敗や挫折の共有を共同性(プロジェクト)として救い上げるシステムが次世代の共同性に繋がって行く象を描いている。今、言葉で語っているが、本当は最先端のネット技術で地域の劣化を食い止め再生へ至る回路を<わくわく>とう変態で論理化したい。
     
    門前塾ー12 塾の展開 未知の塾生諸君へ 11
 たまたま塾代表になった私も24年前、一介のサラリーマンから自営業に転進、見知らぬ土地で飲食業という生業を営んで来た。その選択に後悔はしていないが、個々の努力では遺憾ともし難い地域社会の荒みに立ち竦んで来たのがここ10年である。
 ここに来てやっと解ってきた。自分で納得の行く商いをやれば良いのではないか!大きくすることより身丈に合った商いに徹すること、などなど。
 起業とかリーダーと目指す言葉で語って来たが本当は人々が求め、自分がやりたいことを商いとしてどう実現するかが塾の目標かも知れないなどなど。 
    門前塾ー13 どんぶり屋のデザインコンペに参加する皆さんへ 注ー1
 これまで「わくわく門前町プロジェクト」は構想について幾つか提案して来た。デザインコンセプトを練るに当たり整理する。
   ◎どんぶり屋について
@銚子観音界隈の新たな賑わい創出に向け空き店舗を再生し「どんぶり屋」を開業する。
A「どんぶり屋」は江戸中期、濃い口醤油と江戸前浜が産み出した食文化(丼、天ぷら、寿司など)を振り返り、専門店として新たな銚子の味を目指す。
   ◎界隈エリアの景観形成について
@江戸中期以降、隆盛から今日の衰退に至る経緯を媒介に新たな<賑わい・界隈>を想定する。
A犬吠砂岩(銚子石)を回収、再利用、どんぶり屋を基点に界隈独自な路地を形成する。
B銚子まちづくり会社は商店街の協力によりエリア内の管理運営を担い、これにより銚子固有な景観地区創りに道を開く。
   ◎新たな共同性へ至る道筋
@門前塾は起業し商店街の中核を担うリーダーを育成する。
A門前塾、プロジェクトの活動により従来とは異なる暮らす人、働く人、訪れる人が共存する地域を目指す。
    門前塾−14 どんぶり屋のデザインコンペに参加する皆さんへ 注ー2

@界隈については従来の商店街というイメージではなく<路地>を中核に新たに形成する街並みを想定している。暮らす人、働く人、訪れる人が自由に出入りする、そして店舗と路地が複雑に交差する賑わいと生活空間を考えている。

A国や行政が示す像より日常の累積が何者かである確かな姿を描きれないか!(例えば銚子石を何個回収、再利用できたかが景観の在り様となるように)

A塾生の諸君が中核になる20年位先を想定し(2世代)、銚子固有な街並みの佇まいを創りだす意志(変態する新たな共同性)を表明して欲しい。

A2月中旬ごろ、現場で説明会の開催を考えている。ブランクの諸君が企画、呼び掛けをするので参加して戴きたい。
 

平面図(左側の部分がどんぶり店予定箇所/右側が銚子の入り口案内箇所予定)
 
現地の写真
昭和30年代を示す外観ごく有り触れた元喫茶店
 建築のコンペ専門サイト
AKICHIALAS.comに掲載しました。参考にして下さい。
      観音界隈の再生ー30 銚子石の収集と活用ー4 銚子石マップの提案
 港町のどんぶり屋を営む観音前の空き店舗を調査した。内部は二部屋に分かれ、ひとつはどんぶり屋、片方は次の店舗となる。<どんぶり>というファーストフ−ド食べもの屋にどれだけ奥行きを表現できるか。
 江戸中期に遡る前浜の魚と濃い口、もうひとつは周辺の生活域で、用と美を黙し担って来た銚子石の行方を辿ることではないか。出来ればひとつ、ひとつ調べあげた銚子石マップを壁面に飾りたい。
       門前塾ー15 塾の展開 未知の塾生諸君へ 12
 先ごろ、ブランクの諸君が「門前塾の構想」を公にした。塾の主催者でもないのに門前塾の在り様を我が事のように考え、言葉を摘み若き同胞に呼びかけを開始したことに注目して戴きたい。。
 半年前には「銚子ではどんぶり屋とか門前町とかおじさん連中が叫んでいる、何か変わったことを始めたようだ」位で関心を寄せてきた。
 いつの間にか、ブランクの諸君が門前町プロズジェクトを立ち上げ、真摯に行く末を探り、言葉を交わす、これが将来には互いの夢を実現する回路となりうることに判ってきたようだ。塾とはこういうものかも知れない。
 塾という硬いイメージであるが地域の中で自分に合った従来とは何か違う<商い>をやって見たいという人と出会い、世界にひとつしか無い<商品>を目指すという人材の育成が当面の課題のようだ。
     港町のどんぶり 開店に向けて−1 お米について−1
 <どんぶり>についてもう一度基本から考えて見て行きたい。どんぶりと云うと上に乗る具に注がれるが、本当は如何にお米を美味しく食べるかにあると思っている。
 毎日食べてもけっして飽きの来ないお米があって<どんぶり>が成立する。条件が整ったときにお米の香り・甘み・粘りが具と口の中で豊穣の一瞬を脳幹に注ぐ。どんぶり屋はこの一瞬に掛けるべきである。 
 白身魚を中心とした海鮮丼は「寿司飯」を、青味魚を中心とする「漬け丼」は白飯としたい。前者はお米の質より酢が米の中に如何に浸透するかにかかっている。後者は自ずとお米の美味さと炊飯に左右される。
 リーダーとこの話に進んだ際、炊飯まではマニュアルで解決するが炊飯自体は器械の能力に依存するしかないと説明した。最先端を指標とするメーカーの意欲と合体し、お米という身近な素材を日常化する構想もどんぶり屋の役割と考えたい。
    門前塾−16  どんぶり屋のデザインコンペに参加する皆さんへ 注ー3
 無から有を産み出すという考えは4年前から、そして、これからも大きくは変わらないと思っている。プロジェクトに参加するのも個的理由、獲得するのも個の自由性に依存する、このベクトルに応対する組織論を展開して行きたい。従って、最小の費用で最大の効果を生み出す仕組みで臨むことになるので了承願いたい。
 港町のどんぶり屋構想は次のような時間軸から成り立っている。
@商店街の再生という考えに立っていないということ。
 現在の観音界隈商店街は戦災を経て戦後から30年代に当座の凌ぎという考えで構築された様式といえる。銚子固有の賑わいを呼び込むには既に賞味期限を遥か超えてしまった。衰退の極から現在を可視する方法論を組み立てて行きたい。従って、現在とは異なる街並みの創生(20年ぐらい先)を前提に<再生>とい言葉を用いている。
A観音界隈賑わいの共同性は三層から成り立っている。新たな共同性はこの否定的媒介に至るということ。
 再生を図る<共同性>を大よそ三つに腑分けしている。
(イ)江戸以前の農・漁村の共同性 飯貝根のやんらと呼ばれたその日ぐらしに明け暮れる銚子古層の日常、仲間内がもたらす<開放と閉鎖>性の連鎖である。→「銚子流もてなしの原型創出」
(ロ)
     港町のどんぶり 開店に向けて−2 お米ー2
 お米について選定の作業を開始しようとしていた矢先、リーダーのもとへ銚子市内に住む保立洋一さんが自分が作った米だと行って訪ねてきた。お持ちしたチラシに拠ると「金銭的見返りを期待せづ、残された人生を心豊かに過ごす為に休耕田を利用しての米作りで地域社会に貢献しようとする任意団体」という。
 早速、従業員に試食の準備を整えさせ、同一条件で米を炊飯し4名で口に運んでみた。「きぬひかり」・「こしひかり」・「あきたこまち」の3品である。この内、咀嚼した後の食感である甘み、粘りなどで「こしひかり」が他を凌駕していた。
 設立の趣旨や共同性の取り組みなど門前町プロジェクトと近似している面もあるようだ。選定先の候補として近々に応対して行きたい。
 開店に向け、米の次には「醤油」「味醂」「酒」[酢」など<どんぶり>に欠かせない調味料をまな板に乗せ、吟味・選定する予定である。
    門前塾ー17 トヨタ財団 2010年度地域社会プログラム採択内定について
 昨年、応募していた同財団の「地域に根ざした仕組みづくりー自立と共生の新たな地域社会をめざして」に採択内定の通知(2月10日)が銚子まちづくり会社へ届いた。
 まだ銚子まちづくり会社が設立する前、現リ−ダーの清水俊和がトヨタ財団助成金のことを持って来た。たまたま門前町プロジェクトの仕組みを考えていた矢先であった。この仕組みと構想を整理し応募したのが結果として採択された。銚子の過去を辿り、現在を見詰め、将来を考え、あくまで銚子固有な実践的な構想力にまとめ、リーダーの思いを言葉にしたものである。
 選考委員会からのコメント・改善提案があったので記する。
「行政に依存することなく、地域住民が助け合い、地域社会の振興に取り組む主体的な姿勢を評価します。一方、集客のためには、ある程度の数の店舗が揃わないと難しいのではないかという懸念もあります。本プロジェクトを起爆剤として、周囲を広く巻き込み、活動の持続性を高めることが望まれます。」
    門前塾ー18  トヨタ財団 2010度地域社会プログラムの実践へ向けて−1
 このプログラムは2年間の事業に対する助成(2年間で400万円)である。そして、わくわく門前町プロジェクトの事業・期限と同じくしている。この助成金は行政の縛りがない反面、リスクを背負い確実に事業の成立が期待される。
 先ずは事業の趣旨に沿ってプロジェクトの活動と次世代を担う塾生の育成に思う存分活かしたい。
 4月9日は「助成金贈呈式」翌10日は「助成対象者ワークショップ」が東京で開催される。塾生諸君はは塾活動の一環としてワークショップへ参加することになる。
    港町のどんぶり 開店に向けて−3 カタクチイワシー1 食用化について
 どんぶりは銚子の濃い口と対応する青魚を中心に構成することで進めて来た。青魚と言えばイワシ、サバ、サンマとなる。その格にカタクチイワシを置く事にした。
 店の目前にある飯岡港はカタクチイワシに限れば日本でも有数の水揚港である。7年前になるがイワシの食用化に挑み中途で退却を余技された。<量>に対する加工・流通・販路が全く無謀な営みであった。どんぶりはこの痛烈な反省からカタクチイワシの料理系を改変する試みになる。

   
     港町のどんぶり 開店に向けて−4 カタクチイワシー2 保存食の系
 イワシと云えばほぼマイワシを指す事が多い。確かに以前は圧倒的にマイワシの水揚が多く、且つイワシ料理、また、いわし料理店では素材の大半をマイワシが占めている。過って私もこれを当たり前だと思っていた。
 一方、年の瀬になると酢漬け、丸干し、つみれが。そして、イワシの稚魚でシラスが店頭を賑わしている。何れも料理という仕草に昇華しない日常の食べ物であった。この食べ物の原型を探ると、過っての人々が鮮度の弱さを干すことで、また、塩や酢を用い保存食の系として成立していたことを知る。九十九里、銚子近隣ではカタクチイワシがこの系に属している。
     
     港町のどんぶり 開店に向けてー5 カタクチイワシー3 アニサキス問題−1
 カタクチイワシの食用化以降で二つほど了解したものがあった。いわし料理について調べて見たがその種類は百を数える。ではイワシの持つ本来の美味さを維持できるものはどうであったか。私なりの尺度で保存食の系を超えるものは数少なかったと言える。
 もうひとつはイワシへのアレルギーや<あたる>と言う現象である。イワシの鮮度劣化については温度管理の側面から詳細に調べた経緯がある。冷蔵庫など無かった時代で鮮度の劣化による食中毒はごく自然な現象であった。また、脂の酸化による臭みが刷り込みを引き起こしていたことも了解できた。
 実際に起きるまで理解の範囲を超えていたものは<アニサキスという寄生虫>であった。
    港町のどんぶり 開店に向けてー6 カタクチイワシー4 アニサキス問題ー2
 秋に北に登ったカタクチイワシがアニサキスを抱えたオキアミなどを背負って来る、これを食べた人間が胃壁に突入する劇痛を味わうというシナリオである。水産事務所の調査ではカタクチイワシの約3%にアニサキスが居るという。漁獲される過程で内臓から身に移る、食べるまでの数過程を考えると当たる確率は数十万分になると想定される。実際、針のように細く注意して見ないと判別出来ない代物である。漁業関係者などは口にしないと言う。
 20年前に東京からこの地に居住してカタクチイワシやサバの刺身が魚屋の店頭で見ることが無かった。 古くから人々はイワシやサバなど刺身や痛んだ物を食べると劇痛を伴うことを知っていたに違いない。こうした刷り込みがアレルギーとして関東以北の青さかな文化圏を支配してきたと考えている。
     
    港町どんぶり 開店に向けてー 7 濃い口醤油について 
 プロジェクトメンバー3人と銚子にあるヒゲタ醤油鰍見学した。醤油の製造過程と醤油の歴史やどんぶり屋に必要な知識を得ることであった。 
 幾つか濃い口の特徴を知ることが出来た。製法上で江戸中期、大きく飛躍したのは小麦と大豆の割合1:1という醸造法を産み出した。この醤油が従来に比べ旨み・香味が増し、青魚の臭みを消すが出来たと言う。
 もうひとつは濃い口が銚子の料理として独自な系を産み出したかであった。史料としては特に残っていない、関西の薄口に対する関東の濃い口による調理法の差異ではないかと言う。煮物に限っても「炊く」と「煮付け」では大きな違いがある。確かに青魚の旨み・脂を抽出し甘辛い煮汁に煮詰め、これを絡めて食す銚子風の煮付けは濃い口でなければ出来ない。
 どんぶりについて濃い口との相性を調べている。ひとつは青魚の脂の差、もうひとつは肉質・繊維質によって違うことが解って来た。
   
    工場内
 
     資料館内
 
    本社応接室内
    港町のどんぶり   開店に向けてー8  東日本大震災との遭遇−1
 このどんぶり考は1ヶ月近く中断している。その原因のひとつは3月11日、私の住む旭市飯岡地区が地震に伴い大きい津波の襲来により街の大半が壊滅的損害を被った。自宅は床上1.5Mの浸水により家財道具や備品など瓦礫として搬出した。パソコンを始め書類は流出、または使用不能となってしまった。他方は想像を超えた事態に対応する頭と体力が限界ぎりぎりであったことだ。
 ここに来て非日常から日常への途中に出逢っている。未知と不安を抱えた半日常への帰還といえる。これから数ヵ月後、家を失い、職を追われた人々のことが我がことと重なるのかも知れない。港町のどんぶりはこの大震災を抱え込んで行く事が活路になるように思っている。。
   
    港町のどんぶり 開店に向けて−9 東日本大震災との遭遇ー2
 
飯岡津波の現地は復旧と復興の狭間の様相を露にしている。東北大震災のミニ版が進行している。
日常へ頭を切り替え、非日常の大震災の渦中を想像しながらどんぶり考の中心課題である門前塾を進めて行きたい。
失業保険が切れる半年以降に路頭に迷う大量の職を求める人びとを想像してみる。分かち合いと新たな時代を作りだすせめぎ合いがひと筋の希望になる。
 先ずは事態の推移を想定しながら起業と地域のリーダー育成を震災復興と連動する仕組みを早急に考えたい。 
     港町のどんぶり 開店に向けてー10 東日本大震災との遭遇ー3
 大震災によって当面の予定が中止、延期となった。
 4月9日に予定されていたトヨタ財団の助成金贈呈式とワークショップは中止の連絡が入った。また、わくわく門前町プロジェクトでは門前塾の開塾を5月中旬に延期した。
 大震災は私たちに過去に対する教訓と将来に向う強靭な意志を与えたと謙虚に受け止めている。そのひとつひとつを門前塾は出来れば賛同者と担って行く。復興と事業を創りだすリーダーの育成が急務である。わくわく門前町プロジェクトの力をここに注ぎ<復興門前塾>とし出発する仕組を早急に立ち上げたい。
    港町のどんぶり 開店に向けて −11 復興門前塾へー1
 津波で使えなくなったパソコンを新しく入れ替えたことを軌に、復興門前塾−1に入る。
ここには多くの行方不明者を抱えたまま悲しみに佇む姿と復旧・復興へ突き進む狭間にいる。
門前塾は今、被害者の皆さんと自らを元気にする道を創り前に進んでよいと思う。塾が掲げてきた起業と地域のリーダーを目指し新たな共同性を産み出す仕組みは5年、10年という長いスパンの復旧・復興像と重なるはずである。観音の前に東北から人材を呼び寄せ起業と復興の先頭に立つ人材を育成する。
 瓦礫の撤去作業が進む旭市飯岡地区    
    港町のどんぶり 開店に向けて−12 復興門前塾へー2
 この間、東北から人材受け入れの方策に奔走し、受け入れの準備が見えて来た。ここから先は提案になる。
@門前塾は将来、地域社会の復興、起業する人材を2年間に渡って育成する。
A内定、入社の取り消しなどを受けた人材を東北各地の大学を通じて受け入れる。
B受け入れ先は銚子まちづくり会社とし雇用する。
C2年間の主なスケジュールは研修、4店舗の店作りと開店、営業を通じて起業する実践的な仕組みを学ぶ。
D地域と復興のリーダー育成は各大学と共同のカラキュラムを組む。
E2年後には東北各地の大学、行政などと協議しながら塾生本人が最も活躍できる場を確保する。
 など 、、、、、、、
今回の東日本大震災はこれから十余年に渡って日本社会の枠組みを変える事態である。これに臨む人材は旧来の発想や考え方にとらわれない実践的な方針と行動力を身につけた若い人が当るべきだと考えている。わくわく門前町プロジェクトは総力を挙げ受け入れて行きたい。
 
復旧の現場−1 飯岡港
 
復旧の現場−2 瓦礫の集積
 
復旧の現場ー3 
    港町のどんぶり 開店に代えて  復興どんぶりの提案−1
 2ヶ月前まで、順調に事が進めば今年の夏には銚子観音の門前にどんぶり店が開店の予定であった。
3月11日、時代を転換する東日本大震災に出逢った。この渦中で二つほど自分の頭の整理を強いられた。
ひとつはたまたま津波の被害に遭い自宅と周辺の復旧と将来への備えであった。もうひとつは地震・津波・風評・放射能被害に直面し、半年先までキャンセルの発生に家内の言葉を借りれば顔面蒼白であったらしい。 実際のところは 当たり前のことだが従業員が路頭に迷う事を防ぐ手立てであった。先ずは自らが元気の元になる以外になかった。
 被災から1週間後、再開するに当り 店先に「復興どんぶり」の手作り看板を掲げた。
     
     港町のどんぶり  開店に代えて 復興どんぶりの提案ー2
 ブログにも書いたが骨子は次の通りだ。
@売上げの10%を義援金にすること。
A地元の素材をどんぶりに乗せること。
B美味しいと評判にすること。
 始めた以上、とことんやろうと思ったが予想以上の反響であった。
 4月に入り銚子うめぇもん研究会に提案した。主旨は復興に向けて支援・協力しながら元気を生み出す仕組みとして実行委員会が結成された。
     
     港町のどんぶり  復興どんぶりの歩みー1
 実行委員会では上記に、C旭、銚子、神栖と広域にしたこと、D、9月まで継続すること、を加えた。
旭では予想以上に復旧・復興へ向けて着手されている。しかし、事業・生活の再建には数年単位を要するだろう。東北地方ではこの数倍になるだろう考えられる。時間的には復興どんぶりの着地点も数年先になる。また、時間と共に被災・風評被害者意識も変異する。自らがこれを前向きに越えていく必要がある。
 従って、希望と地域の活力が復興の支えであるなら、そのシンボルとして復興どんぶりは共同の意思(目的と継続の理由)をより明らかにする事が求められる。
       港町のどんぶり  復興どんぶりの歩みー2
 港町のどんぶり構想は数年前から始まった。シャッターを閉じた店舗を再生し、地域の賑わいを産み出す取り組みであった。そして塾と言う形態で若い人材の育成を考えた。わくわく門前町プロジェクトである。しかしながら思うように展開を見ないのが偽らない現状といえる。
 今、震災を受けた東北各地で復旧・復興に向けた取り組みが始まろうとしている。商店街が寂れ年寄りの方が多くなりつつある街々で生活・生業の再建は一様ではない。政府や関係者の構想は生活の有り様をすり抜けた大風呂敷と写る。こうした構想とは縁遠いが大震災を機に、東北各地の成り行きと「港町のどんぶり構想」は同調することを由としたい。
      銚子石の保存・活用ー5   3.11東日本大震災と「神勝の旧和田堀石倉」
 2年前の7月、石材業で屋号「神勝」を生業として来た神宮寺勝之助さんから銚子石についてお話を聞いた。その際、旧和田堀に建てた石倉を見学した。この石倉が先の震災で大規模損壊、崩落などを負った。
 下の写真では屋根が解体され側面の石積のみになっている。銚子まちづくり会社の清水はこの現場に立会い、損壊した石の利用について神勝さんから了承を得ただいた。この姿に神宮寺勝之助さんは涙したと聞く。  
     
      港町のどんぶり  復興どんぶりの歩みー3
 どんぶりについて提案した始点は10%の義援金・地元の産品・美味しいの三つであった。別な言葉にすると<お腹を満たす・地産を味合う・元気を分ち合う>というシンプルな展開である。
 5年、10年とう長期戦を歩むにはシンプルな展開と固有な論理が不可欠である。どんぶりに例えるなら自分の店固有な味・名物どんぶりをどう作り出すかとなる。震災後の生活感は震災前に比し確実に変容している。全てが濁流に呑まれ瓦礫化した有り様の果てに必要なものだけを介して生活に臨む姿勢が読み取れる。自粛の極をこうみる。
 震災後の生活感を素直に見つめ、本当に必要な食べ物を提供する、地域の飲食店の有り様と復興どんぶりが重なってくるはずである。 
     港町のどんぶり  復興どんぶりの歩み−4
 会議を開き10月からの展開について協議した。話し合いの末、@名称は「復興名物丼」とする A10月までに各店は<名物丼>に相応しいどんぶりを開発する などが確認事項となった。ここに来て復興は5年〜10年の歳月を要し、言い換えれば震災後の地域の再編と重なってくる。復興どんぶりはこうした事情に対応し地域へ集客する先導役を目差すことになる。
     港町のどんぶりー13  震災後とはー1
 この間、被災者への支援と風評被害を克服し、共に元気を導く方法として「復興どんぶり」を提案した。港町のどんぶりが形を代え時代の局面に登場したとも言える。今、地域における様々な試みは東日本大震災の荒波を受け再出立に立っている。
 政治の世界では人心の一新へ、社会は仕組みの改変を規範の変容として、解体の際にあった家族と個人は再編へ、赤裸々な関係を踏み台に歩むことになる。行政用語の復興を私なりに人を中心に切り盛りとすればこうなる。
    港町のどんぶり −14   震災後とはー2
 旭市飯岡地区では瓦礫の撤去と住宅・財政上の支援がそれなりに進行している。行政上では東北に先駆け復旧は格段に早いと感じている。しかし、想定外と言われる地震・津波への応対はこれからだ。行政上では復旧・復興のシナリオは出来ているが旧来の発想・仕組みのためしばらくはドタバタするはずである。地域が壊滅していく大震災という事態を50年、100年の生活レベルで読み解く限り「日本一住みやすい町にする」という発想はどうして生まれるのか!そこに至る」「媒介」という内実は!
 4年前、町内の魚屋さんの行く末から「港町のどんぶり」構想を思い立った。3・11津波はその行く末を一気に加速した。今回の津波による被災を受けた町内の魚屋さん4軒の内、2軒は店を閉じる。震災は地域で生業を営む事業者に生死を分ける選択を付き付けたような気がする。
       港町のどんぶり−15  震災後とはー3
 生業と生活の原型を魚屋さんに見定め地域の再生を考え始めた。この間、都市と地方・ナショナルとグローバリズム、衰退・対立・拡張の狭間で見果てぬ消耗戦が震災前であった。過去でもなく現在でもない見果てぬ夢を実現するため過って賑わいを独り占めし衰退の一途を辿る門前町の僅か100m四方のエリアに新たなコミニィテーを目指そうとした。
 3・11震災とは、個人の生涯・生活・生業と社会の規範まで転変する事態となった。しかし、冷静によく考えて見ようではないか!生活・生業が自然系に依存する地域の在りよう・その原型が問われているのだ。交換経済が社会の全てを仕切るシステムが限界を露出しているといえる。
       港町のどんぶりー16 震災後とはー4
 港町のどんぶりはこれまで銚子港で水揚げされる魚介類を丼に乗せ地域にひとを呼び込む仕組みを主要な課題にして来た。震災後もこの考えに変更を加える必要はないと思っている。
 しかし、震災は地域に住む在り方を、原発は生産と自然の見直しを問いかけた。二つの課題から身を逸らさず前へ進むことが<復興>と共鳴する方法と考えている。そうとう厳しい道のりとの付き合いになることを肝に銘じている。
 門前塾は今、一名の塾生を引き連れ、観音前で「どんぶり」店の開業に向け開塾した。どんぶりは銚子港の持つ青魚水揚げ日本一という潜在的資源力を見直し<銚子青魚文化>創出の一端を担って行くことを目指している。
     
    港町のどんぶりー17  震災後とは−5
旭市では復興に向けて住民アンケートや地域代表者を集め会議を開いている。政府が復興への枠組みを提示したことを受け市として取り組みを始めたようだ。本当は住民から聞くことではなく、災害や事態に対する行政の取り組みについて検証し先ず説明することである。従前へ自己批判を含め、以後に対する態度を明確にすべきなのだ。これを不問にして事態に臨む、従前と全く変わりがないではないか。
 一方、自らの態度を留保し政府や行政当局者への要求や批判の在り方は従前と変わりがないではないか。この位相から離脱し自らが問いを発、し自らが解を導き出す作業は少ないように思える。震災後という時代を生き抜く実践の領域を創る作業はこれからとなる。
     港町のどんぶりー18  震災後とはー6
震災とか津波とか、あるいは復興という喧騒から平穏な日常に戻りたいという意見は私の周りに多い。いいおか津波 語り部の会組織化でも幾つかの問題に切り揉みされてきた。震災からの復興をバネにして地域の再建に目指すということと先ずは平穏な生活を営みたいとの落差である。
この間、 復興などいうことばを掲げ、被災の轍を駆け足で来た。自らは<平穏な生活>を通り過ごしてきたが復興を反転するにはこのあり様を実践の領域とすることになる。
     港町のどんぶり−19 観音食堂 どんぶり屋    の開店
 
計画では9月の中旬であったが10月1日となった。港町のどんぶりは約4年間に渡り、あれこれ彷徨い歩いて来た。着地点を観音前に目指す課題は目前となった。
 
 
   賑わい考ー X <銚子観音前とは>−
 単純であるが名乗りだして頂きたい。これが歴史を変える実践への契機である。
ひとつは最近の言葉では自らの持つ専門性を社会貢献に活かし地域を元気にする営みである。
もうひとつは若い人の特権として現状を突破する元気に依存したい。
もうひとつ付け加えたい。汗水流すことで地域流のビジネスを創りで出して戴きたい。
 @固定資産税だけ払ってもらいば後は好き勝手なことをしていいという気風の店舗が名乗りだすこと
 A銚子を活性化したいという店舗の集合体を構成する事業者が名乗りだすこと
 B @とAをまとめ中心市街地のイメージを改変する人材が名乗りだすこと
 C将来の銚子を担う人材とノウハウに資金の提供を名乗りだすこと
 D未完の銚子運河構想を徹底的に調査・公表したい方は名乗りだすこと
 E散在する「銚子石」を調査し、その再利用を地域の活性化として模索したい方が名乗りだすこと

 F新たな賑わいを目指す銚子観音前の<エンジン>を応援する個人・団体が名乗りだすこと
1年前から思いつきで実践への契機を並べて来た。そのうちDを除き意志の表明を戴いた。未知を承知で実践への段階を迎えたようだ。
 平成23年初頭、残されたDの表明を戴いた。2年に渡る呼び掛けもこれで実践へ一歩進むことになった。今後、2年間は徹底的に付き合うことを原則にしたい。そして、門前町固有な賑わいを固有な粋な計らいで紡ぎだしていただきたい。